「ヘンリー・キャベンディッシュ」最も風変わりな化学者の生涯と謎。

キャベンディッシュの実験器具

マクスウェルとキャベンディッシュ

 1874年。
マクスウェルの方程式として、人類の電磁気学の研究成果をわずか4つの数式に集約してみせたジェームズ・クラーク・マクスウェルは、ヘンリー・キャベンディッシュ(1731~1810)という人の、電気の研究に関する膨大な未発表原稿を発掘した。
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 そこにあった知見のいくつかは間違いなく驚くべきものだった。
クーロンの法則やオームの法則といった、キャベンディッシュ以降に発見されたいくつもの業績が、彼の原稿には眠っていたのだ。
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 マクスウェルは未発表原稿を整理し、実験を追試もしながら、その足跡を追った。

 マクスウェルが編集したキャベンディッシュの未発表論文集がケンブリッジ大学より出版されたのは、1879年の事。
その偉大な研究の記録のいくつもが、ついに日の目を見たのは、キャベンディッシュの死後70年ほども経ってからの事であった。

科学者以前の頃

英国名門貴族キャベンディッシュ

 ヘンリー・キャベンディッシュ。
この内気で、人付き合いを嫌い、しかしただひたすらに科学に情熱を傾けた男は、1731年10月10日に、南フランスのニースで生まれた。
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 彼は名門貴族の子だった。
父は第二代デヴォンシャー公の五男チャールズ・キャベンディッシュ。
母はケント公の四女アン・グレイ。

 キャベンディッシュは英国の名門貴族だが、ヘンリーがフランスで産まれたのは、病弱だった母アンが、気候温暖なニースの地で、療養中だったからである。
ヘンリーが2歳の時、彼女は次男フレデリックをロンドンで出産し、間もなく死んでしまった。
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学生時代。ケンブリッジを中退

 キャベンディッシュは1742年に、ロンドンで評判の高かったニューカム博士の学校に入学した。
1749年には、その学校を卒業。
同年の冬。
キャベンディッシュはケンブリッジのピーターハウス・カレッジに進学した。

 しかし3年ほど、学んだ後に、キャベンディッシュは学位も取らず、大学をやめてしまう。
理由はわかってないが、おそらくやめたのは自らの意思であろう。

王立協会へ。気象学、電気学に通じていた父

 大学を去ってから、キャベンディッシュはロンドンに戻り、父と暮らし始めた。

 1760年。
キャベンディッシュは王立協会に入会したが、これはおそらく、父であるチャールズの後ろ楯あっての事だった。
ヘンリーの父であるチャールズ・キャベンディッシュも、王立教会会員であり、気象観測機器の開発や、電気学の研究に関わっていた事がわかっている。
引きこもりがちなヘンリーにとって、数少ない身近な存在の父の影響は大きかったろうと思われる。
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 そんなキャベンディッシュが、初めて論文を発表したのは1766年の事だった。
論文のタイトルは「人工空気に関する実験についての三つの論文」

最も金持ちな科学者の謎

 謎に満ちたキャベンディッシュの人生において、最大級の謎のひとつが、彼がある時、いったいどうしてか、莫大な財産を手にした事。
これは確かな事実らしい。

 1783年。
グレート・マールバラ街の屋敷で、父チャールズが亡くなった時、長男のキャベンディッシュはその遺産を相続した。
しかし、そんな遺産など相続するまでもなく、彼は既に莫大な富を得ていたと、同時代人の多くが記録しているのだという。

 博物学者キュヴィエや、物理学者のビオは、インドで財を成したキャベンディッシュの伯父が、彼に遺産を残したと述べている。
また、化学者のトマス・トムソンは、キャベンディッシュの伯母が、かなりの財産を残したのだと伝えている。

 歴史家たちを悩ませているのが、このような証言にある伯父や伯母にあたる人物が、キャベンディッシュの家系図に一切見つかってないという事実である。

 いったい彼に莫大な遺産を引き渡したのは何者なのか。
それが全然わかってないのである。
ただ、キャベンディッシュが死んだ時、彼はイギリスでも最大クラスの大富豪であったらしい。
ビオはまた、「彼は最も金持ちな科学者であり、金持ちの中で最も偉大な科学者である」などと評している。
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大量の本と、実験器具に囲まれた暮らし

 1783年に父が亡くなると、キャベンディッシュは、グレート・マールバラ街から、大英博物館に近いモンタギュー広場とガウアー街の角にある屋敷に引っ越す。

 屋敷に人が招かれる事はまれだった。
ただごく少数、この屋敷に入る事を許された人たちは、口を揃えて、その屋敷の中には「大量の本と、実験器具が溢れていた」と述べたという。

 キャベンディッシュはさらに、ソホー地区のディーン街の別邸に本を置き、図書館としていて、こちらは、様々な科学者に開放していた。

 それにキャベンディッシュは、郊外のクラパムにも別荘を持っていた。
この屋敷には、キャベンディッシュが自作した寒暖計や、雨量計が備え付けられ、全体が実験室のようだったとされる。
天体観測室に、鍛造室まであったという。

変わり者。しかし数学、化学、実験哲学の全てに通ずる

 王立協会会員であるという事実は、キャベンディッシュの社会との数少ない接点のひとつだった。
人付き合いなどほとんどしない彼も、協会の会合や、当時の会長ジョセフ・バンクス卿の屋敷で行われたパーティーなどには、よく出席したという。

 そのような場で彼を見た、多くの著名な科学者が、その奇人ぶりを述べている。

 例えば、エディンバラ大学教授プレイフェアは、キャベンディッシュについて以下のように述べている。
「とても高貴な身分の方とは思えない。無口で、たまに口を開いても、その話し方はぎこちない。たが彼の知識は極めて幅広く、協会員の多くが、彼に一目置いている。実際彼は、私の知る限り、数学、化学、実験哲学の全てに通ずる唯一の人だ」

女性嫌いな男

 キャベンディッシュはまた、大の女性嫌いであったとされる。
クラパムに住んでいたオールナットという老人曰く、「キャベンディッシュは、決して女性の使用人と顔を合わせなかった」のだという。

 キャベンディッシュは毎日、食事の注文をノートに書き、決まった時間にホールのテーブルに置いていた。
彼と使用人とのやりとりは、実質的にそのノートだけだった。
また、ある時、彼の前に姿を見せてしまった女中は、即刻クビにされたという。

 ただし以上の話は、女性嫌いというより、単に使用人と必要以上に関わりを持ちたくなかった、というふうにも解釈できよう。

最期の日

 ヘンリー・キャベンディッシュが亡くなったのは、1810年2月24日。

 ある日の夕方、急に具合を悪くしたキャベンディッシュは、3日ほど寝込んだ。
そして最期の日。
彼はベルを鳴らして、男の使用人を呼び出し、告げた。
「私はもうじき死ぬと思う。私の死は、私が死んでから、必ず死んでから、ジョージ(彼のいとこ)に伝えてくれ」

 彼がこの世から巣立っていったのは、それからほんの一時間ほどしてからだったという。

ただ1枚の肖像画はいかにして描かれたか

 キャベンディッシュの肖像画は、ただ1枚だけ現存している。
それを書いたのはアレクサンダーという画家。
もちろんキャベンディッシュは、あのような性格なので、自ら絵のモデルになったのではない。
アレクサンダーは、王立協会の食事会に現れた彼を、こっそりスケッチし、そのスケッチを元に水彩画を描いたのだ。

キャベンディッシュの業績

キャベンディッシュの発表された全論文リスト

 キャベンディッシュが、その生涯で、公表した論文は18編。

「人工空気に関する実験について」(1766年)
「ラスボーン広場の水に関する実験」(1767年)
「重要ないくつかの電気現象を弾性流体によって説明する試み」(1771年)
流体 「流体とは何か」物理的に自由な状態。レイノルズ数とフルード数
「シビレエイの作用を電気によって模倣するいくつかの試みについて」(1776年)
「王立協会ハウスで用いられた気象観測機器の説明」(1776年)
「新しい電量計の説明」( 1783年)
「水銀が凍る温度を測定するハッチンス氏の実験に対する意見」(1783年)
「空気に関する実験」(1784年)
「空気に関する実験に対するカーワン氏の意見への返事」(1784年)
「空気に関する実験」(1785年)
「ハドソン湾のヘンリーハウスでジョン・マクナブ氏によって行われた混合液体の凍結に関する実験について」(1786年)
化学反応 「化学反応の基礎」原子とは何か、分子量は何の量か
「ハドソン湾のアルバニーフォートでジョン・マクナブ氏によって行われた実験について」(1788年)
「脱フロギストン空気とフロギストン化した空気の混合物の電気火花による亜硝酸への変換」(1788年)
「1784年2月23日に観測された光り輝くアーチの高度について」(1790年)
「ヒンズー教の暦年とその分割について、チャールズ・ウィルキンス氏所有の3つの暦の説明」(1792年)
「ヘンリー・キャベンディッシュから、メンドーサ・ソ・リオ氏への書簡( 1795年1月)の抜粋」(1797年)
「地球の密度を測定する実験」(1798年)
「天文観測装置の目盛りのつけ方の改良について」(1809年)

空気と人工空気。フロギストン。水素。酸素。窒素

 彼の時代において、空気というのは、気体全般の事。
そして、人工空気とは、 金属などの物質から分離させた空気(気体)のことを指している。

 また、キャベンディッシュは、明らかに何度か水素を発見しているが、彼はそれをフロギストンだと思っていたようである。
フロギストンは炎が形を変えたようなものであり、空気中にそれが入る余地には、限界があるとされていた。
つまり脱フロギストン空気とは、フロギストンの入る余地がたくさんあり、燃えやすい空気(酸素)。
そしてフロギストン化した空気とは、フロギストンがいっぱいになった、燃えにくい空気(おそらくは窒素)の事。
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キャベンディッシュの実験。地球の密度と万有引力定数

 地球の密度を測定する実験については、今日、『キャベンディッシュの実験』と呼ばれ、よく知られている。
キャベンディッシュは、ねじり秤の原理を応用した、精密な測定を繰り返し、地球の平均密度が水の5.48倍であることを示したのだ。

 この実験の結果から、ニュートンの万有引力定数を求めることも可能だが、別にキャベンディッシュはそれを求めようとしてこの実験を行ったわけではない。
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彼の論文では、万有引力定数については別に触れられていない。
彼が求めていたのは、あくまでも地球の密度である。
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誰より未来を歩いていた人

 キャベンディッシュの死後に、彼の未発表の原稿に光を当てた最初の人は、英国科学振興協会会長のハーコートであった。

 一般に、1775年にヒ素を発見したのは、化学者のシェーレとされている。
しかしハーコートによると、なんとその10年以上も前の1764年に、キャベンディッシュは既にヒ素を発見していたのだという。

 キャベンディッシュは熱学、電磁気学の分野でも、大いに(しかし密かに)に時代を先取りしていたようであるが、特に驚くべきは、オームの法則の発見である。
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彼の時代にはまだ、電気抵抗を測るような機器はなかったから、彼は自分の体を使ったのだ。
自分に電流を流し、その抵抗に違いがあることを確かめているのである。

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