「ニコラ・テスラ」交流モーター、エジソンとの戦い、妄想という天才

エジソンとテスラ

 発明王エジソン(Thomas Alva Edison。1847~1931)のライバルとされながら、あちらに比べると歴史から忘れ去られていた感が強いといわれるニコラ・テスラ(Nikola Tesla。1856~1943)だが、それはもう過去の話になりつつあるだろう。
「トーマス・エジソン」発明王と呼ばれた独学者。Hello、蓄音機、白熱電球  ただテスラはエジソンの会社で働いていた時期もあり、 ライバルというよりも、敵対することになった先輩後輩という感じだったのかもしれない。

 エジソンはスピリットフォンの話など、オカルトマニアの話題に上がることも結構ある。
テスラはと言えば、無限に使えるフリーエネルギーを実現寸前だったとか、地球外生物と交信しようとしていたとか、そっち系の話においては、明らかにエジソン以上に人気である。

特殊能力持ちだった天才

 1856年7月。
オーストリア帝国(現在のクロアチア)の「スミルジャン(Smiljan)」の村で、セルビア人の両親から生まれた。

 ニコラの父、ミルティン・テスラ(Milutin Tesla。1819–1879)は、キリストの弟子たちの信仰の正当継承者とする立場の「東方正教会(Eastern Orthodox Church)」の司祭だったとされる。
母であるドゥカ・マンディック(Đuka Mandić。1822〜1892年)も、正教会の司祭の娘であった。

 ドゥカはまた、正式な教育を受けたことがないにもかかわらず、家庭で使えるような工作機械や器具を作る才に長け、読み書きできないハンデを覆せるくらいに高い記憶能力を有していたとされる。
ニコラの高い創造能力は、まさしく母親譲りだったのである。

 またニコラには、ミルカ、アンジェリーナ、マリカの3人の姉妹と、テスラが5歳の時に乗馬事故で亡くなった兄のデーンがいたという。
兄は12歳で死んだが、ニコラをして「生物学的奇跡」と言わしめるくらいには天才児だったらしい。 

不可思議な電磁気現象。頭の中の積分

 1861年。
ニコラはスミルジャンの学校で、ドイツ語、算術、宗教を学びはじめたという。
初めての発明もこの頃で、大したものではなかったらしいが、木製の小型水車を作ったらしい。

 1862年。
テスラ一家はゴスピッチに引っ越し、父ミルティンがその教区の司祭となった。

 そして1870年には、ニコラはカルロヴァツの「高等教育機関(Higher Real Gymnasium)」に入学する。
彼はそこで、物理学の教授の、電気実験のデモンストレーションを見て、実に「不可思議な現象(mysterious phenomena)」に思えた、その電磁気現象に強い興味を持つようになったとされる。
雷「電磁気学」最初の場の理論。電気と磁気の関係 ニコラはまた数学が得意で、積分の計算を頭の中のみで行うことができたとされる。
教師の中には、彼のその計算能力を信じたがらず、カンニングしているのだと決めつける者もいたようである。
「取り尽くし法」台形、三角形、円を、積分と極限で求める術

リアルな妄想

 ニコラは幼い頃から幻覚をよく見たが、 それは彼の能力の原理にもなっていたという。

 本当に幼い頃はそれに悩まされて、なんとかそんな幻覚をもう見ないような方法を探したりもしたという。

 彼が何かに注目して考えだすと、その対象の物体が、自分の目の前にまったくリアルに現れたりしたのである。
それはちゃんと(少なくとも彼にとっては)しっかり質量もあって、本物か偽物かまるっきり見当がつかなかった。
だから他の人に確かめる必要すらあったという。

 しかし学校で数学の勉強を始めた時に、この力が非常に役立つことがあることにも彼は気づいた。
どんな計算問題でも、それを解くために必要な記号や数字が、すぐさま目の前に現れたのである。

 ニコラは生前、上記のような話をよく語っていたらしいが、真実ではないとしても、嘘を言っているつもりではなかったとされる。
ようするに、彼には被害妄想の気があったのだと考える人は多い。

死の淵の約束。山の自然とマーク・トウェイン

 1873年にカルロヴァツの学校を卒業した後は、ニコラはスミリャンに戻った。
そしてこの時期に彼は感染症のコレラにかかり、ほとんど1年くらいの間、いつ死んでもおかしくないような日々を過ごしたという。

 父は、息子には自分と同じように、神に仕えてもらおうと考えていたが、死にそうな息子に助かってほしい一心で、「元気にさえなってくれるなら(ニコラ自身は望んでいた)工学学校に通わせる」などという約束をかわしたとされる。

 後にニコラ自身は、徴兵逃れのために、ハンターのふりして山にこもった経験が、肉体と精神、両方の強くなるきっかけになったと語ったという。
また、多くの本を読んだ中でも、マーク・トウェイン(Samuel Langhorne Clemens。1835~1910)の作品は、生きる助けになったらしい。

交流発電機のアイデア

 1875年。
ニコラは、オーストリアの「グラーツ工科大学(Technische Universität Graz)」に入学する。

 ニコラはグラーツで、「グラムダイナモ(Gramme dynamo)」という「直流電流(Direct Current)」を生成する発電機が動作するのを見て、「交流電流(Alternating Current)」のシステムのアイデアを思いついたのだという。
電気回路「電気回路、電子回路、半導体の基礎知識」電子機器の脈「電気コンポーネントの動作」直流と交流の使い分け、各デバイスの役割  ゼノブ・テオフィル・グラム(Zénobe Théophile Gramme。1826~1901)という人が発明したグラムダイナモは、商業的に使える規模の発電を行える最初の発電機だったとされる。

 周期的にプラスマイナスが変化する交流というアイデア自体は、ニコラより古くからある。
ただニコラは、発電システムが大規模になってきた場合の、交流の利点を見いだしたのだった。

 例えば交流は電圧の調整がしやすく、そうすることで、長距離送電のコスト(ロス)を大きく下げることができる。

 そもそもおそらく、交流を使った配電システムを最初に考えたのすらニコラではない。
しかし直流に比べて交流は、計算や構造設計が難しいとされ、あまり実用的でないと考えられていたのである。

ハンガリーの電話局

 グラーツに通い初めて3年くらいで、ニコラは、学費の問題で学校を中退。
その後、父は亡くなったが、叔父に援助してもらって、1880年1月に、今度はチェコのプラハ大学で勉強することになったが、やはり卒業した記録はない。

 そして1881年。
ニコラは、ハンガリーはブダペストの電信会社で働きはじめる。
彼は、電信会社で新しく機能しだしたばかりの電話局で、主任電気技師の地位についたらしい。

誘導電動機

 ニコラの働く電話局の技術提供をしていたのは、エジソンの会社「エジソン・ゼネラル・エレクトリック」だったわけだが、この時のニコラからしてみたら、エジソンというのは、憧れの大電気技師であったとされる。

 ニコラはその後も、電気技師としてのキャリアを積み上げながら、交流システムの実現の可能性を探し続けた。

 そして1883年。
ニコラは、電磁誘導によって電力が供給される交流電流モーター、いわゆる「誘導電動機(Induction motor)」の試作品を完成させ、動作テストにも成功する。
ニコラ自身は(実際にそうだったとされるが)これは大した発明だと自信があったが、ヨーロッパでは誰もそれに興味を持ってくれなかった。

二相交流、三相交流

 交流モーターは、周期的なプラスマイナス方向の変化をする交流の変化速度に応じて、「回転磁場(Rotating magnetic field)」と呼ばれる、磁極性の回転を引き起こし、回転動作に繋げるというのが基本的な原理となる。
この原理のための電流の伝送に、ニコラ以前は、「単相交流(single-phase current)」という方式が使われていた。
単相交流は、1つの正弦波せいげんはの波形で定義できる基本的な交流である。
波の関数「三角関数とは何か」円弧、動径、サイン、コサインの振動と波。  しかし単相交流のシステムは、回転磁場を発生させるための他の仕掛けが必要だし、電流の伝達量を高くしにくいので、ニコラが考えるような大きなシステムに使いにくい。
ニコラの見事なアイデアは、2つの位相いそう(一周期のうち、ある特定の局面)をずらした正弦波で定義できる「二相交流(Two-phase electric power)」を利用するものだった。

 ニコラは、 2組の曲げた針金を交わらせた形で、二相交流を発生させ、回転磁場を生む仕掛けを考案。
こうして『二相交流電動機(Two-phase induction motor)』というものが発明された。
これはニコラ・テスラの最大の発明ともされる。

 二相交流の実現後、ニコラはさらに三相、四相と、「多相交流(polyphase current)」のシステムモデルを次々考案していった。

 現在は三相交流の電力供給システムが最も普及している。
またニコラとは独立に、多相交流を研究、発明した者たちとして、ガリレオ・フェラリス(Galileo Ferraris。1847~1897)、ミハイル・ドリヴォ=ドブロヴォルスキー(Mikhail Dolivo-Dobrovolsky。1861~1919)、ジョナス・ヴェンストロム(Jonas Wenström。1855~1893)などが知られているが、フェラリスやドブロヴォルスキーは、エジソンの息のかかった会社で働いていたことが、ニコラと共通している。 

電気技術者として、発明家として

ニューヨークへ

 1884年6月。
エジソンの会社(コンチネンタルエジソン社)のヨーロッパ法人で働いていたニコラ・テスラは、実用的な交流モーターと、具体的なシステムのアイデアを持って、ニューヨークへ飛んだ。
ヨーロッパではことごとく無視された自身のアイデアを、憧れの発明家であるエジソンに直接ぶつけるためであった。

 ニコラは、エジソンに関して、学校で学んでいないにも関わらず、多くの偉業を成し遂げた発明家であるという点を、大きく尊敬していたとされる。
自分の尊敬していた母もまた、学歴なしの発明家であったことも、その気持ちに関係していたかもしれない。

エジソンとの決別

 エジソンは有能な技術者としてのニコラ・テスラはすでに知っていて、すぐに彼を自分の電力会社に採用したとされる。
そして入社から数週間ほどした頃。
とある蒸気船に搭載されていた直流発電機が故障して、調査を命じられたニコラは、徹夜作業でそれを修理した。
これにはエジソンも感心し、彼は本格的に設計の仕事も任されるようになったそうである。

 しかし決別の時もわりとすぐ訪れた。
ニコラは、エジソンとちゃんと話せるようになると、当然、エジソンの会社が利用していた、直流発電機の問題点を改善した、交流発電機の計画を提案した。
エジソンはその価値を認めて、成功した暁には5万ドルのボーナスを約束したとされる。

 エジソンは、交流発電機の実用化の難しさを知っていて、だからそれは不可能だろうと考えていた。
ところが、すでにそれに関するアイデアは頭に詰め込まれてたニコラは、数ヶ月でそれを完成させた。
エジソンはしかし金を惜しんで、「テスラ君、君はどうやらアメリカンジョークの何たるかを理解していないようだ」などと述べて、約束を反故にしたとされる。

 結局ニコラは、1885年の春頃に、エジソンの会社を退職した。

 実際はエジソンとの5万ドルがどうたらというやり取りなどなく、単に、自分の働きぶりに対する待遇や給料に不満だったから、やめたという説もある。

 ただ、そもそも送電システムに関する考え方の違いから、二人の関係は長続きしなかったろう。
それに関しては交流の方が有利だと考えていたニコラに対し、エジソンは直流の優位性を信じていたとされる。

 今ははっきりしているように、その採用対決は、ニコラが勝利した。

テスラ電気会社

 エジソンの会社を去り、電気技術士として独立したニコラだが、 最初に設立した会社は、ほんの2年ほどで経営破綻してしまったとされる。
彼は貧乏な状況に苦しみ、しばらくは、道路工事の日雇い労働などで、なんとか食い扶持を稼いだという。

 しかし、時代がようやく交流システムに興味を抱きはじめたのか、1887年には、投資家がまた現れ、ニコラは自身の「テスラ電気会社(Tesla Electric Light Company)」と共に、念願であった研究所も手に入れることができた。
そしてその年の内に、ニコラは交流で作動する誘導モーターを開発。
それは、特に長距離での高電圧伝送に関する利点のために、急速に普及していくこととなる。

 ニコラは、多相交流を用いるその電動機に関して、1888年5月に特許を取得している。

直流か交流か

 交流システム自体の実用性は、事業者や投資家たちの間にもすぐに広まったが、実際に商用化するとなると、誰もがみな慎重になった。

 真っ先に名乗りをあげたのは、発明家ジョージ・ウェスティングハウス(George Westinghouse。1846~1914)であった。

 ウェスティングハウスの会社「(ウェスティングハウス・エレクトリック(Westinghouse Electric Corporation)」には、最初の実用的な変圧器の開発者であったウィリアム・スタンリー(William Stanley。1858~1916)がいた。
なればこそウェスティングハウスは、交流システムの、電圧調整が容易という大きな利点をよく理解していた。

 しかしウェスティングハウス社の採用していた交流システムは、単相交流を利用したもので、いろいろと問題があった。
その改善の鍵として、ニコラ・テスラの多相交流システムが目を付けられたわけであった。

 ニコラは、エジソンの会社でいた頃の失敗を踏まえてか、ウェスティングハウスから派遣されてきた代理人に対して、最初からかなり破格の特許レンタル料を要求したとされる。
ウェスティングス社は怯まず、契約に応じ、それが世界を変える始まりとなったのだった。

 そして、その契約はまた、直流か交流か、電気事業に携わる者たちの、未来のシステムをめぐる戦いにつながった。

世代間技術者抗争

 直流と交流の戦い。
最初は、企業だけを見れば、ウェスティングス社と、エジソンが先導するその他の会社というような感じであったようだ。

 また直流を支持する者には、比較的古い世代の技術者や科学者が多く、逆に交流を支持する者たちには、比較的若い者たちが多かったという。
それだからこの戦いは、ある種の世代間抗争ともされる。

 しかしこれは、後から考えてみたら出来レースの戦いでしかないだろう。
交流は、大規模な電力システムには欠かせない、長距離送電に有利とされるが、実のところ、そもそも直流が、長距離送電に不利なのである。

 まったく理想的な導体なんてものはない。
電線を使って電流を走らせる時、そこには抵抗によって、熱などに変換されてしまう、つまり失われてしまうエネルギーがある。
この時、エネルギーの損失量の計算には、電圧が関係しているが、 それは少ないなら少ない方がいい。
直流では電圧変換が難しいために、多量の電流を送ろうとすれば、高い電圧もずっと必要で、それが長距離になればなるほどエネルギーの損失がバカにならなくなってしまう。

 いろいろ理由は想像されているが、エジソンが直流にこだわった理由はどう考えても、つまらない意固地だったと思われる。

エジソンは有名になりすぎて性根が腐ってしまっていたか

 エジソンは偉大な発明家だったかもしれないが、勝利の味を味わいすぎてしまって、やや性根が腐ってしまっていたようである。

 エジソンはすでに確立されていた自分の高い名声を最大限に使って、狂気の沙汰とも思えるようなネガティブキャンペーンを次々と起こしたとされる。

 人を集めて、動物を交流発電機の電撃を浴びせて殺し、交流はこんなに危険なのだと訴えた。
さらに死刑に使われる電気椅子の電気にも、交流を使うように、各州の政治家たちに働きかけ、 交流は試験に使われるような危険な電流だと触れ回った。

 もはやエジソンにとっては、技術や未来のための戦いというよりも、単にプライドを守るためのあがきだった。
今の視点的に、どう考えても恐ろしいのは電流ではなく、明らかに無意味な殺しを用いたプロパガンダであろう。

 ちなみに、これに対してニコラは、交流の回路に自分の体も使うという、とんでもないパフォーマンスで、それの安全性を訴えたという話がある。

恩人との友情

 結局は交流が勝利しようという寸前だった1890年前半頃。
19世紀後半のアメリカ経済の中で起きていた合併の波が、電気会社の領域にも押し寄せてきた。
そうして、エジソンの会社も、ウェスティングハウス電気会社も、それぞれ、より大きな企業に吸収されてしまうことになった。

 あくまで直流にこだわるエジソンだったが、もはや彼にはその意地を強引に貫けるような立場でもなくなってしまった。

 一方で、ウェスティングス社は、合併先の新たな投資者たちが突きつけてきた、ニコラへの破格の特許料に関する契約を無効にするという、投資を継続するための条件に悩まされていた。
ウェスティングハウス社は反対したが、そうしたところで今度は会社自体が潰れてしまうかもしれない。

 ニコラにとってジョージ・ウェスティングハウスは、誰も認めてくれなかった時に、唯一手を差し伸べてくれた恩人である。
そして、恩返しのつもりだったのか、彼はウェスティングハウス社の使者たちの前で、特許料に関する契約書を自ら破り捨てたとされている。

 しかしこうして、ニコラはまた、自分の発明に必要な金を確保しにくくなり、金さえあれば実現できたであろう多くの構想を、構想だけに終わらせてしまったのだという。

 体面や未来より、プライドと名誉をとろうとしたエジソンに対して、ニコラは金より、そして未来より友情をとったのである。

 後にニコラは、ウェスティングスに関して、「偏見にも財力にも負けないで、私の事を信じてくれた、地球上で最初の人であった」などと述べているという。

テスラコイルと、その伝説

 1886年の、 電磁波を受信回路で検出するのに成功した、ヘルツ(Heinrich Rudolf Hertz。1857~1894)の実験は、 多くの技術者に強い乾麺を与えたが、ニコラ・テスラもその一人だった。
電波「電波」電磁波との違い。なぜ波長が長く、周波数が低いか  1890年前後くらいの頃。
高周波数、つまりプラスマイナスの変化速度が早い交流を発生させる研究に、ニコラは本格的に取り組み始めた。

 コンデンサーもコイルも、交流回路において、抵抗になるデバイスであるが、基本性質は異なる。
例えばコンデンサーは周波数が高くなると抵抗値が小さくなる、コイルでは逆である。
これらの性質をうまく組み合わせれば、様々な交流回路、変圧器を作れる。

 ニコラはそうして、有名な「テスラコイル」や、 無線システムなどに欠かせない、「同調回路(Tuning circuit)」を開発している。

高周波、高電圧を生み出すデバイス

 テスラコイルはようするに、高周波、高電圧を生み出す、電気デバイスである。
またこれは、ワイヤレス(無線)で電力を伝送できる最初のシステムであったともされる。

 放電の効率がいいことから、ニコラはまずこの発明が、エジソンの白熱電球を超える光源に繋がりえないかと試行錯誤した。

 ガスを入れたガラス管に交流電流を促すと、ガスに応じた色の光を鮮やかに発する。
特にニコラは、ネオン管を折り曲げて、様々な幾何学の形をつくり、光らせたとされているが、これは後の、ネオンサインにつながったとされている。

 ニコラは1890年には、 高周波の電流による物質の加熱が、医療に使えるのでないかとも提唱している。
この発想は現在でも、ガン細胞の早期治療などに残っている。

 テスラコイルの原理はまた、ある波長の電波への同調にも繋がった。
同調のような、ある周波数への調整は、後に実現された様々な無線システムと関連がある。

世界システム

 地球の大気は、その性質の違いなどによって、いくつかの層に分けられて考えられることがあるが、その内の、紫外線やエックス線で、分子などがイオン化した領域を「電離層(ionosphere)」という。
化学反応「化学反応の基礎」原子とは何か、分子量は何の量か 電離層は電波を反射する性質があるため、 無線通信に利用されたりもする。
宇宙のアンテナ「アンテナの基礎知識」種類ごとの用途。個々の特徴  おそらくは雷のような自然の放電現象や、太陽風などの原因により、地表と電離層との間には、かなり波長が長い波長の電波の振動が起きている。

 ニコラ・テスラは、その電波を見つけて、「地球定常波(Earth standing wave)」という名前を付けたとされる。
彼はどうも、地球自体が何らかの要因で電気を溜め込むコンデンサーのようなものと考え、それを電源とした、「世界システム(World wireless system)」なんていう、惑星規模の無線システムを考えていたらしい。

 大気を利用した、世界規模の無線電波のシステムなんてものは、時代の先を行きすぎていた発想ではある。
というより、当時の基準で言えば、もうほとんどSFのアイデアレベルだろうと思われる。

大実験と、地球外生物の電波

 ニコラは1899年には、コロラド州の実験場で、かなり大規模な電圧実験を行ったのだが、大規模すぎたのか、街中が一時停電になるような事態を招いてしまったとされる。

 この大規模実験に関しては様々な伝説がまことしやかに囁かれている。
特に有名なのは、地球外生物の電波を、実験中に受信したというもの。

 それは単純にニコラの勘違いだったとされる。
ただ、当時は太陽系の他の惑星にも、普通に生物の可能性が、かなり真剣に考えられていた時代だから、そこまでとてつもなく驚くべきようなことではなかったかもしれない。
太陽系「太陽と太陽系の惑星」特徴。現象。地球との関わり。生命体の可能性

フリーエネルギー

 とにかく重要なのは自然エネルギーだと考えていた。
大気層の電磁波以外にも、地熱や風力、あるいは生命体と、地球はいたるところでエネルギーを発生させているように思われる。
ガイア「ガイア理論」地球は生き物か。人間、生命体、生態系の謎 それら全て電源として、ニコラは想定していたわけである。

 彼がどこまでそれにこだわっていたのか今となっては定かでないところもあるが、彼の自然エネルギー研究は永遠に利用できる、いわゆる「フリーエネルギー」の研究でもあったという噂もある。

 仮に、地球も何も関係ない、無限に発生するエネルギーがあるとして、それをコイルなどにより、幅広く利用可能な状態に変換できるなら、すなわち永久機関を作れるはず。

 一説によるとニコラは、重力こそ、自然界に存在する無限のエネルギーだと考えたのだという。
時空の歪み「特殊相対性理論と一般相対性理論」違いあう感覚で成り立つ宇宙