王室の船ダンネブログ
デンマークはどこでも、海岸線が近い国とされる。
海域が身近な国であるからして、王室が持っている、専用船の『ダンネブログ(Her Danish Majesty’s Yacht Dannebrog。Dannebrog。ダネブロー号)』は有名である。
王族の者が公式に海外を訪問する際の乗り物から、単に夏のクルーズ(船旅)、時には海上救助まで、いろいろ幅広く機能するらしい。
ダンネブログという名は、1931年に、コペンハーゲンのアレクサンドリン女王(Queen Alexandrine in Copenhagen。1879~1952)によって命名されたものともされるが、ちょっと曖昧。
この名前自体は、デンマークの国旗のことらしい。
構造的に王室エリアと、他の乗務員の宿泊施設などのためのスペースは分かれているようである。
しかし王室エリアは、非常時には、病院船の患者収容エリアになるらしい。
また、屋根付きのデッキは、レセプションパーティー(歓迎パーティー)などに使用されることもあるという。
無口で活発な女王
アレクサンドリンは1912年からデンマークの女王だったが、1918年からはアイスランドの女王にもなっている人。
「アイスランド」海底火山の上に、ヴァイキングたちが作った国
ドイツ出身のフレデリック・フランシス3世大公(Friedrich Franz Paul Nikolaus Ernst Heinrich。1851~1897)とロシア出身のアナスタシア大公(Anastasia Mikhailovna。1860~1922)の最年長の子。
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夫は、デンマーク王室に生まれ、アイスランドの王にもなったクリスチャン10世(Christian Carl Frederik Albert Alexander Vilhelm。1870~1947)で、彼との間に、2人の子が生まれている。
後にスウェーデンのイングリッド王女と結婚するフレデリック王子(1899–1972)。
それに、デンマーク王室の親戚にあたるキャロライン王女(Princess Caroline-Mathilde。1900~1976)と結婚することになったクヌード遺伝王子(Knud, Hereditary Prince。1900~1976))である。
子供時代のアレクサンドリンはスポーツが好きで、 大人になってからも、趣味でよくゴルフをしていたという。
また、ピアノを幼い頃から習っていて、音楽への関心は生涯続いたともされる。
他には裁縫が得意で、また熱心な写真家でもあったという
無口な性格だったという話があり、女王としての最初の数年間は、世間の注目に慣れるのに苦労したようである。
上に立つ者として、非常に模範的で真面目な性格だったという話があるが、単に注目を浴びるのが嫌だっただけという説もある。
氷河が作った地理と地形
地理的にデンマークという国は、バルト海と北海に挟まれた、ドイツから地続きとなるユトランド半島と、その周辺の島々。
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それに自治権を持つフェロー諸島とグリーンランドという構成。
島の数は合計で500くらいらしい。
「グリーンランド」緑より氷河の多い、地球最大の島
デンマークの特徴の1つに大まかに平らというのもある。
最大標高も170メートル程度。
この山のまったくない大地には、風(偏西風)がよく吹き抜けるという。
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そしてよく吹く風が雲を素早く運ぶため、天気が頻繁に変わりやすい。
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しかし降水量はあまり多くなく、結果的に、寒さのわりに、雪があまり降らない国となっている。
大まかに平らとしたが、実際、細かい起伏は結構あったりするという。
氷河期の氷河の動きの影響の名残である。
エッダ、サガに書かれた起源
バルト海のシェラン島には、首都であるコペンハーゲンもある。
さらに、そのコペンハーゲンにおける観光スポットのひとつに、「ゲフィオンの噴水(Gefion Fountain)」というのがある。
アイスランドの詩人で、歴史学者でもあるスノッリ・ストゥルルソン(Snorri Sturluson。1179~1241)が書き残した「ユングリング・サガ(Ynglinga saga)」や、「ラグナルスドラパ(Ragnarsdrápa)」には、「ギュルヴィたぶらかし(Gylfaginning)」という話があり、そこでは、シェラン島がいかに作られたかの経緯が書かれてあったりする。
スカンジナビアで最初の(あるいは最初に記録された)王とされるギュルヴィは、女神ゲフィオンに誘惑され、一晩で耕すことができるだけの土地を彼女に与えた。
その後、ゲフィオンは4人の息子を牛に変えて、 土を運ばせて、新たにシェラン島を作ったのだそうである。
この過程で、土を取るためにえぐられて形成されたのがスウェーデンのヴェーネルン湖、あるいはメーラレン湖らしい。
氷河期という創世記
重力や自身の重さなどの圧力により流動する性質を持った巨大な氷塊を「氷河(glacier)」と言う。
また、地球型惑星の地表面を覆う氷塊で、総面積が5万平方km以上のものを「氷床(ice sheet)」、5万平方km以下のものを「氷帽(ice cap)」と言う。
通常、氷河と氷床のどちらの定義にも当てはまっている場合は、氷床と呼ばれることが多い。
地球は1万年くらい前まで、「最終氷期(Last glacial period)」などと呼ばれる氷河期だったとされる。
そこで、氷河が侵食、堆積することで形成される『氷河地形(glacial landforms)』がけっこうはっきりしている。
一口に氷河地形と言っても「カール(圏谷)」や「U字谷」、「エスカー」などいろいろ種類がある。
ところで、地質学的な意味では、南極大陸とグリーンランドにまだ氷河(氷床)があるので、今はまだ氷河期の最中と言える(注釈)。
本来、氷河でない時代とは、惑星の地表に、氷床と呼ばれるような氷河が存在しない時代のことである。
南極の氷床はおよそ3500万年前、グリーンランドの氷床はおよそ150万年前に形成されたものとされる。
そして南極の氷床が形成される以前の時代には、そんなものはほとんどなかったと考えられている。
さらに、これが肝心なことだが、いきなり地球の気温が急激に下がって、(例えば1時間とかで)一気に凍りついたわけではないとされる。
氷河はどこかで始まり、広がっていった。
ようするに氷河期と呼ばれるようなとても寒い時代には、今、海になっているような多くの水が、凍りついたり、雪として降り注いだりして、形成された氷河(氷床)が、流れていくというよりも拡大していった。
そしてデンマークの辺りは、最も氷床が広がった時点での、南西方向の最終地点だったとされる。
氷河は、土地を削り取っていくが、その削り取った(モレーンと呼ばれる)塊を運びもする。
そうして最終地点まで運ばれてきた土や石が、その辺りの基盤となる。
そして、最後の氷河期が12,000年くらい前に終わった時。
氷河期の間、デンマークを覆っていた厚い氷床は溶けると共に、その圧力による削りが、下にあった大地の形を調整し、丘とか山も作った。
地表の形に関しては、上昇した海水面の水はもちろん、氷が溶けて重さが減ったことによる圧力の低下が、結果引き起こした、抑えられていた大地のエネルギーの放出(ようするに大地震)も関係しているだろうとされる。
「プレートテクトニクス」大陸移動説からの変化。地質学者たちの理解の方法
(注釈)氷河期の定義
氷河期という言葉は、いろいろな人が、勝手な定義で使いすぎているために、わりと混乱が生じている感がある。
ただ、もしもこの言葉を、岩石惑星における、低温によって氷床が存在するくらいのレベルの段階と定義するならば、氷床があるらしい火星は氷河期といえる。
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いつか、誕生の瞬間から、滅びの時まで、ずっと氷河期というような惑星が、確認されたりする日は来るだろうか。
コペンハーゲン。北欧のパリとも呼ばれる文化の中心地
デンマークの首都コペンハーゲンは、1990年代の後期くらいから発展が著しい都市とされる。
コペンハーゲンは元々は、10世紀くらいに設立されたバイキングの漁村だったとされる。
それが15世紀の初頭くらいにデンマークの首都となり、発展したが、18世紀には疫病(ペスト)や大火災によって、わりとボロボロになり、再開発を経験したりもしたそうである。
コペンハーゲンの名前は、「商人の港」を意味していたらしい。
デンマークはもちろん、北欧全体の中でも、文化の中心地的なところで、「北欧のパリ」とも称されている。
また、哲学の巨人キルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard。1813~1855)と、物理学の巨人ボーア(Niels Henrik David Bohr。1885~1962)などはコペンハーゲン出身である。
キルケゴールは、現実は本質に先立つとして、その優位性を説く「実存主義(existentialism)」の創始者として有名。
ボーアは、現代物理学に欠かせない、量子論の始まりの頃の最重要人物の1人である。
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国立博物館、国立美術館
コペンハーゲンには、国際的にも有名な博物館や美術館も結構ある。
特に「デンマーク国立博物館(National Museum of Denmark)」と「デンマーク国立美術館(National Gallery of Denmark)」はよく知られているという。
国立博物館は、デンマーク最大の文化史博物館で、デンマークのみならず、さまざまな国の文化や歴史が記録されている。
またこの博物館の、グリーンランド研究センターは、グリーンランドにおける考古学、人類学研究の最前線である。
若者の家、占拠事件
近代化の波が止まらない中で、それによって変化する社会に反発する若者たちも結構いた。
「自立主義者(autonomist)」と呼ばれる人たちで、オタク系の人も多いのか、サブカルチャーにのめり込む傾向も強い。
コペンハーゲンのノレブロにある「若者の家(Ungdomshuset。Youth House)」と呼ばれる建物は、音楽活動などの拠点のひとつとなり、また、人の出会いの場などとしても機能していたとされる。
その施設は、本来は「フォルケッツハス(Folkets Hus。人民の家)」という名称で、「労働者の政治運動(labour movement)」参加者の本部(あるいは支部)のひとつとして、1897年11月12日に完成したという。
建物の所有権はいくつかの組織の手に渡っていく、立て直しの計画などもあったが、結局流れた。
そして1982年から、この建物は反骨的な若者たちの活動の場となり、若者の家として知られるようになった。
この若者の家は デンマークだけに知られていたわけでもない。
Nick Cave、Einstürzende Neubauten、Björkなどのそこそこ名の知られる国外アーティストたちも、そこで演奏したことがあるという。
1982年からその建物を所有していたのはコペンハーゲン市自体で、若者たちには無料提供されていた。
しかし1996年1月には火事に見舞われ、2000年くらいには、老朽化を修復する費用も確保できず、若者の家はついに、売りに出され、2001年には、「Faderhuset(父の家)」とかいうキリスト教団体の所有となった。
しかし、自分たちの使用権利の喪失を認めない若者活動家たちは、それを占拠。
父の家側は当然訴え、裁判沙汰となり、2006年末までに立ち退くようにと、判決が下るも、活動家たちはそれを無視。
内部にバリケードを貼って、「世界のトラブルメーカーたち、ようこそ」などと息巻いた。
最終的には、 警察の機動隊が突入する事態にまで発展する。
暴動はさらにノレブロのあちけちに連鎖していったともされる。
あちこちで、車とゴミ箱のバリケードを作られ、通りに火を放つ者もいて、あやうく幼稚園が火事になるところだった場面もあった。
いろいろな所に次々落書きがなされ、学校や図書館などが荒らされ、本とコンピューターが大量に焼かれた。
結果的にその占拠事件は、逮捕された人の数などから、第二次世界対戦終結以降のデンマークにおける、最大級の事件の1つとされているという。
世界最古の2つの遊園地
コペンハーゲンには、世界で最も古い2つの遊園地、「ダイレハフスバッケン(Dyrehavsbakken。鹿の牧草地の丘)」と、「チボリ(Tivoli)」がある。
ダイレハフスバッケン。エンターテイナーたちの遊び場
ダイレハフスバッケン(通称バッケン)は、コペンハーゲン中心部から北に約10キロくらいのクランペンボー(Klampenborg。ゲントフテ自治体)近くの、リンビー・タールベック(Lyngby-Taarbæk Municipality)にある遊園地。
この遊園地の起源は、現在は「イェーガースボルグ・ダイレハベ(JægersborgDyrehave)」という森林公園の中に泉が見つかった1583年にまで遡るとされる。
この時期、コペンハーゲンの都市部の水は質がかなり悪かったため、コペンハーゲンの住民は、その綺麗な湧き水に魅了された。
また自然に涌き出た泉には治療効果があると信じられていて、すぐに大衆が、その泉に集まるようになった。
そして大衆が、いろいろなエンターテイナーを呼び、彼らがそこにばらまいた楽しさが、今日の遊園地の起源となったのだという。
森林公園は王室が管理し、1670年に王になったクリスチャン5世(1646~1699)は、そのサイズを3倍くらいに拡大したという。
また、1671年には現在の名前であるイェーガースボルグ・ダイレハベという名もついた。
クリスチャン5世は公園への一般市民の立ち入りも禁止し、フレデリック5世(1723~1766)の時代になる1756年までその状態は続いた。
再び一般大衆に開放されるや、バッケンはまた、エンターテイナーの野外劇場となった。
バッケンのヨーロッパ全体での評判も高まっていき、その人気は19世紀には、蒸気船と鉄道の開発によるアクセスのしやすさの向上、それに詩人や作家の宣伝によって後押しされた。
しかしバッケンの人気が高まるにつれ、その衛生環境の悪さが露呈するようになってしまう。
そこで、バッケンでビジネスをする者たちは、1885年に、「テントオーナー協会(Tent Owners’ Association)」という管理組織を設立。
協会は、トイレ設備などの水回りを改善し、ゴミの排除に努め、公園への電気の導入を支援した。
協会は今日もあり、公園で活動する企業は基本的に参加する必要があるという。
そして20世紀になってからも、バッケンは近代的な改装を怠らず、現在に至っている。
これが最初ではないと思われるが、現存する遊園地としては最も古い。
ちなみに入場料は無料だという。
チボリ。世界最古のジェットコースターと観覧車
ダイレハフスバッケンからそんなに遠くないというチボリは、やはり現存する中では、バッケンに次ぐ古さの遊園地。
オープンはしかしバッケンよりはかなり後の1843年である。
この遊園地の創設者の1人であるゲオルグ・カーステンセン(Johan Bernhard Georg Carstensen。1812~1857)は、王であるクリスチャン8世(1786~1848)に「人々が楽しもうという時に、政治のことなんて考えないでください」と告げて、遊園地を創設するための5年間の特権を取得したとされる。
最初はイタリアのティボリと、ロンドンのボクソール庭園にちなんで、「Tivoli&Vauxhall」と名付けられたとされるが、いつからか単にチボリとなった。
設立当初からチボリは、テーマパーク的で、架空のオリエント(東洋)のエキゾチックスタイルな劇場や施設が多く見られたとされる。
メリーゴーランドや鉄道などの機械的なアミューズメントライドに、暗くなった後に庭園を照らす色付きランプなども、わりと早くから設定されたという。
1915年から設置されたジェットコースター「Rutschebanen」と、1943年から設置された観覧車は、共に最古のものらしい。
Ruthschebanenという名前は、そのままデンマーク語でジェットコースターの意味だという。
現代的な観点から見ると、なかなか面白いのが、ちゃんと速度を制御するのに、普通にブレーキをかける必要があること。
そこでブレーキマンが、列車の決まった席に座っているそうである。
作曲家のハンス・クリスチャン・ルンビエ(Hans Christian Lumbye。1810年〜1874年)は、1843~1872年の期間、チボリにおける音楽監督で、 現在でも彼の作曲した作品はチボリ交響楽団(コペンハーゲン・フィルハーモニー管弦楽団)に演奏されたりするという。
コペンハーゲン以外のシェラン島
デンマークといえばやはりコペンハーゲンが有名である。
シェラン島で他に有名なところといえば、 バルト海に面してそびえ立つ、シェイクスピア(William Shakespeare。1564~1616)の戯曲ハムレットで有名な「クロンボー城(Kronborg Castle)」。
王室の、主に春と秋の住居である「フレーゼンスボー城(Fredensborg Palace)」。
昔は王室のものだったが、現在は国立博物館となっている「フレズレクスボー城(フレデリクスボー城)」。
1995年に世界遺産にも登録されている「ロスキレ大聖堂(Roskilde Cathedral)」などがある。
ユトランドのオーフース。キリスト教の司教たちが発展させた都市
コペンハーゲンに次ぐデンマーク第2の都市は、ユトランド半島の 「オーフース(Aarhus)」とされる。
ここは、8世紀にヴァイキングが築いた要塞から始まった都市とされ、デンマークの中においては、最も古い都市のひとつでもある。
どうも10世紀頃に、キリスト教の司教団がいすわったようである。
その後に、キリスト教の権威がヨーロッパ全体の中で高まるにつれ、その活動の中心地の1つということで、この都市も発展していったらしい。
フュン島のオーデンセ。アンデルセンの故郷
シェラン島との間に「大ベルト海峡」を挟み、そこにかかっている「グレートベルト・リンク(Storebæltsforbindelsen。大ベルト橋)」で繋がる『フュン島(Fyn)』は、シェラン島に次ぐ大きな島。
このフュン島の文化や政治の中心地である「オーデンセ(Odense)」は、有名な作家アンデルセン(Hans Christian Andersen。1805~1875)の出身地としても知られる。
アンデルセンは、「人魚姫」や「マッチ売りの少女」など、有名な作品を多く残す童話作家の大御所である。
デンマーク語。ドイツ語と英語の影響
デンマーク語は、 インドヨーロッパ語族の北ゲルマン系、東ノルド語派生の言語とされる。
ようするにスウェーデン語や、ブークモールと呼ばれるノルウェー語の書き言葉と、姉妹語である。
北欧世界では、紀元200~800年ぐらいの間、ある程度共通した、古ノルド語と呼ばれる言語があったとされる。
それがヴァイキング時代といわれる1100年くらいまでの期間に、東ノルド語と西ノルド語に分岐する。
文字を表記するのに、古くはルーン文字というのが使われていたが、900年代後半ぐらいにキリスト教が普及してくると、それと同時にラテン文字も普及する。
最初ルーン文字とラテン文字は共存していたが、1300年代くらいからだんだんとラテン文字が主流となっていった。
1100年以降は中世デンマーク語と呼ばれる言語が誕生していて、 いくらか変化を繰り返し、1700年以降は、新デンマーク語と称されている。
それまではわりと文字の順番などは気にされていなかったようなのだが、しっかりと文法が成立してきたのが新デンマーク語の時期とされる。
歴史的にドイツ語の影響に潰されそうになってきたデンマーク語だが、現在は英語が普及しているため、やはり未来における消滅を危惧されているという。