「バックギャモンの歴史」盤双六の発明。賭博か死後シミュレーションか

日本の盤双六はバックギャモンか

双六は2種類

 双六すごろくと呼ばれるゲームには二種類ある。
呼び分ける場合は、「盤双六」、「絵双六」とされる。

 これらは互いに影響を与えやっている面があったり、似た要素もあるが別のゲームである。
日本以外の国では、そのように同じ名称が使われているという例は少ないようで、混乱が生じているのは日本だけともされる。

 今現在、双六といえば絵双六のイメージが強い。
それは、スタートから始め、ターンごとにサイコロを振った数だけマスを進んでいって、先にゴールに到達した者が勝ちというゲームである。

 盤双六は絵双六よりも古くからあるゲームとされ、絵双六はそれから派生して誕生したともされる。

盤双六のルール

 盤双六は二人対戦のゲームである。

 基本的に、対戦するそれぞれのプレイヤーは互いに(たいてい白黒に)色分けされた15個ずつの石を持つ。
そして通常は6マスごとに区分けされた24マスに配置されたそれらの石をすべてゴールさせたら勝ちというゲーム。

 24マスは、 互いのプレイヤー同士で逆向きと考えたらよい。
ようするにプレイヤー1の24マス目は、プレイヤー2の1マス目となる。
そして互いにとっての最後の6マスに自分の全ての石を先に置いた者が勝ちとなる。
サイコロは1ターンに2度振って、その合計の数だけ同じ石を進めるか、あるいはそれぞれの数だけ2つの石を進める。

 当然上記の基本ルールだけだと100%ただの運ゲーでしかないが、そこは一応、自分の石がふたつあるマスに相手の石は置けないとか、相手の石が1個だけのマスに自分の石を置いたら、その1個だけの石は最初のマスに戻るとか、ちゃんと戦術性を考慮したルールもある。

基本的には新しいゲームかのように扱われた

 盤双六はつまり普通に「バックギャモン」の一種と言えよう。

 バックギャモンは今でもけっこう遊ばれるゲームで、ルールは盤双六とほぼ同じだが、ゴールの条件など、いくつか細かい点が異なる。

 だから盤双六の歴史といえば、バックギャモンの歴史ともほぼ等しい。
逆もしかりである。

 ただ江戸末期の頃には、すでに盤双六は廃れていて、双六と言えば絵双六であり、バックギャモンは、西洋からの新しいゲームとして受け入れられたらしい。

セネト。エジプトの死者の国小旅行ゲーム

 現在のゲーム史研究においては、少なくとも紀元前2500年くらいのエジプトに、すでにスタートからゴールまで、どれだけ早くコマが進められるかを競うレースゲームが存在していたとされる。
古代エジプトの歴史「古代エジプトの歴史」王朝の一覧、文明の発展と変化、簡単な流れサイコロ「サイコロの歴史」起源と文化との関わり。占いとゲーム道具 これをすでにバックギャモン型とするならば、おそらくこの形式のテーブルゲームの歴史は最も古い。

ツタンカーメンも遊んだゲーム

 1922年くらいに発見された、紀元前1300年ぐらいのものとされるツタンカーメン王の墓には、かなりの数の副葬品があったが、その中でも明らかなゲーム盤もいくつかあったという。
そしてその内のひとつは、かなり確実に、10のマスが3列並んだ盤とコマを使う、「セネト」というレースゲームの盤であった。

 セネトの意味は「通過する」であり、もうこの名前だけで、これがどういうゲームなのかある程度予想がつく人もいるだろう。
ただし実際に正確なルールに関する文書などは残っていないから、その辺りに関して確実なことはない。

 特に大きな謎とされているのが、いったい一回のゲームでいくつのコマを使ったのかということ。

 ただ、時代によって多少の変化があったとはいえ、セネトは古代エジプト王朝の歴史(3000年くらい)の間、 権力者が変わる中でも変わらず親しまれたゲームの可能性が高いとされる。
同じゲームがこれほど長く遊ばれ続けたという例は他にないため、かなり魅力があったのだとも推測できる(コラム1)

(コラム1)我々には早すぎる

 しかし例えば5000年後の世界の中でチェスや将棋はまだ遊ばれてるかもしれない。

 コンピューターゲームはどうだろうか。
かつてゲーム機は5年の寿命と呼ばれたように、その移り変わりはかなり早いように思える。
SFゲームコンピューターゲームの誕生「ゲーム機以前のゲーム機の歴史」 しかし例えばRPGを、特定のSFやファンタジーの物語を、擬似的に追体験するというようなジャンルだとして考えた場合、 現在のRPGは、初期のドラクエとかと変わらないと同じようなゲームと言えまいか。
選択「ゲイリー・ガイギャックス」D&Dの歴史の始まり、最初のRPG誕生の物語ドット絵「日本のゲーム機の歴史の始まり」任天堂、ナムコ、セガ、タイトー ただ変わったのは、その体験のリアルさと、プレイするユーザーの好みや、それに合わせた世界観だけではなかろうか。
そういうゲームはきっと5000年後も生き残っているんじゃないかと個人的には思う。

 ただこういうことを判断する場合、我々は少し早い時代に生まれすぎたせいでサンプルが少ない。
例えば紀元後以降に発明されたどんなゲームも、絶対に2000年以上は親しまれていないってことになってしまう。

 さらに我々は今や、明らかにゲームを作るのが上手くなった。
ようするに、真に長く愛される魅力あるゲームがどういうものか客観的に判断するには、多分あと数千年は足りない。

神々の家を訪ね歩き

 この時代のゲームは、基本的に神話と関係があるのではないかと解釈されてきた。
そこで断片的なパピルス(紙)などに書かれたこのゲームに関する記述から、各マスの意味を解読することにより、ゲームのルールを推測する試みがなされてきているという。

 セネトの各マスはすべて何らかの神か、神と関連する「ペル(家)」なのだという。
最初のマスは知恵、魔法、月、音楽などの神とされるトートの家である。
トートは死者の国の王オシリスとも関連深いとされていて、最後のマスは、オシリスの息子であり後継者とされるホルス神であるらしい。
さらに10が3つ並んだ合計30マスというのは、おそらくは太陰暦(月の満ち欠けを使った歴)を基準とした30日。

 以上のことからこのゲームは、死者がトートの案内で、様々な神の守護とか裁判を経て、最終的に死者の神ホルス神のもとへとやってくる、あるいは審判を下されに行くゲームというように解釈できる(注釈1)。
もちろん普通に単に神々の家をめぐる小旅行というような設定だった可能性もある。
ただ設定的に、死者や死後の世界観を描いたようなものであることは、かなり確かとされている。

 ちなみに現在発売されているセネトは、考古学者が推測したルールを元にしている。

(注釈1)神話が先か、ゲームが先か

 このような神話をもとにゲームを作ったのか。
それとも、ある程度ゲームのルールを考えた上で、そこに神話を当てはめていったのか。

 今我々が何らかの神話をもとにゲームを作ることを考えよう。
今の我々は結構自由だ。
ゲームシステム的に都合が悪いことがあれば、多少のオリジナル要素を入れたりとか、一部設定の改変をしたりとかもできる。

 当時はどうだったろうか。
神話の内容はゲームのために変わっただろうか。
もしそういうことがあったとするなら、そこから実際の神話の改変に多少繋がったりもしたかもしれない。
神話からゲームが生まれるだけではない。
ゲームから神話が生まれた可能性もあるわけである。

いつ頃から遊ばれていたのか

 エジプト王朝には、セネト以外にも、いくつもゲームはあった。
例えば紀元前2000年くらいに遊ばれ始めたとみられる、58個の穴と10本の棒を使うゲームらしい「ハウンド犬とジャッカル(Hounds and Jackals)」などは、かなり広く流行っていたらしい。

 しかしセネトはより古いとされる。

 象形文字の記録まで含めれば、セネトの最も古いものは第一王朝(紀元前28~29世紀ぐらい)のものとされる。
メルクネラとかいう王の墓に描かれた(おそらく紀元前3100年頃の)断片的な壁画は、セネトを表しているのでないかとされている。

 第三王朝(紀元前27世紀ぐらい)の(王の親しい友人でもあったという説もある)神官ヘシの墓には、 もっとはっきりとこのゲームらしき絵が描かれているという。

 絵ではなく具体的な品としては、フリンダーズ・ピートリー卿(1853~1942)が、古代都市(あるいは墓地)のアビドスで発見したいくつかの破片が、このセネトというゲームの盤のものなのではないか、という説がある。
これがそうだとしても、完成品としては、縦横せいぜい20センチぐらいのものだったろうとされている。
時代的には、紀元前2900~2700年ぐらいのものらしい。

 あるいはアブシールという遺跡でも、やはり紀元前2700年頃ぐらいのものと思われるゲーム盤らしきものが発見されているという。

 基本的にそれらは、木と象牙で作られていたようだ。
プラスチック「プラスチック」作り方。性質。歴史。待ち望まれた最高級の素材

貴族だけの楽しみではなかった

 結構粗末な作りではあるものの、明らかに石工仕事に勤めていた平民が遊んでいたらしき盤が見つかっているため、ツタンカーメンが生きていたくらいのエジプト第18王朝(紀元前14世紀くらい)の時代には、王や貴族だけでなく、大衆の間でもこのセネトなるゲームが親しまれていたのはほぼ間違いない。

 また、この18王朝の時代から、そのゲームの持ち主の名前を盤に刻むという習慣が定着したらしき節があるという。
これはゲームが商品として成り立っていたかのようなイメージを抱かせてくれる。

 それとこの時代に見つかっているゲーム盤のいくらかは、横に引き出しが付いていて、おそらくは中に駒を入れておけただろうギミック(仕掛け)があったりするという。

バックギャモンの系譜

 セネトは盤双六、つまりバックギャモンに繋がるようなゲームなのであろうか。

 とりあえず明らかな違いも結構多い。
例えば盤双六は、12のマスが2列に並んだ盤を使う。

 逆に明らかな共通点もある。
例えばサイコロが使われていたことはほぼ間違いないらしい。

 この頃のエジプトでサイコロといえば、アストラガルスと呼ばれる4面サイコロか、やはり4面の棒状サイコロである。
ツタンカーメンのゲーム盤にも、アストラガルスがセットであったようだ。

 セネトはエジプト王朝の消滅と共に、歴史的には行方知れずになってしまったとされたりもする。
しかしエジプトを植民地にしたギリシア(~紀元前2世紀くらい)には、やはり似たようなゲームがあった。
それはエジプトから伝えられてきたゲームが元になっているのだろうか。
そうであろうと考えられている。

 実際ギリシア版セネトには不明な点が、ある意味セネトより多いが、次の時代でかつギリシアから影響を受けていたローマ(~紀元5世紀くらい)では、12マスが3列に並んだ、やはり同じようなゲームが遊ばれていたという。

 古代エジプトの墓においても、12×3や6×3の盤が発見されてもいるようだが、数が少なく、亜種なのか、まったく別のゲームなのかはわからない。

 ギリシアは6面のサイコロが使われ始めた時代ともされる。
とすると、サイコロの数が増えたから、それに合わせてマス目が増えたのだと推測できる。

 このセネト系列のゲームは、 時代が進むと世界中に広まっていき、西洋ではバックギャモンと呼ばれるようになり、日本においては(盤)双六と呼ばれるようになったのだと考えられる。
つまり盤双六は日本版バックギャモンであり、バックギャモンは現代版セネトなわけである。

もうひとつの起源候補、シャフレ・ソフテ

 実のところ、イランのシャフレ・ソフテという、 おそらくはエジプト第一王朝よりも少し古いくらいの時代の古代遺跡で、60マスのゲーム盤が 発見されていてこちらこそがバックギャモンの真の起源なのではないかという説がある。
ただ問題は、この古代イランのゲームと、セネトとの繋がりがかなり不明なこと。

 エジプトのセネトはかなり紀元近くまで普通に遊ばれていて、その後の時代のものと連続してるみたいだが、このイラン起源説をとると、かなりの空白期間ができてしまうのでないか、という指摘もある。

ローマのアレア、ルダス・ドデシム・スクリプトルム

 ローマにおけるセネト(?)は「ルダス・ドデシム・スクリプトルム (Ludus Duodecim Scriptorum。12のしるしゲーム) 」と呼ばれていた。
そしてこれはセネトよりもかなり確実に、バックギャモンに繋がるゲームだとされている。

 セネトとバックギャモン(というかルダス・ドデシム・スクリプトルム )の関連の証拠は、ほとんど単に見かけが似ているというだけにすぎない。

 ルダス・ドデシム・スクリプトルムに関しても、正確なルールなど不明な点は多いが、かなり重要なのは、このローマ時代に起こったひとつの変化である。

 ルダス・ドデシム・スクリプトルムは、おそらく1世紀くらいから、3列並んでいた12のマスが1列減らされ、2列になったとされる。
つまり盤が、現在のバックギャモンと(ほぼ?)同じになったと考えられる。

 なぜ1列減らされたのかに関しては、減らされた時期と同じくらいの頃に、このゲームが「アレア(alea。ギャンブル)」と呼ばれるようになったことがヒントになると考える者は多い。
賭け事が好きなローマ人たちは、このゲームを使ってよく賭けをしていたのだが、そのようなギャンブルに使われる場合は、1回の勝負はさっさと終わる方が都合がよいはず。
そこでゲーム時間を減らすために、1列なくなったというわけである。
おそらくその頃には太陰暦がどうとか、そういう設定もすっかり失われてしまっていたわけだろう。

 つまり若干儀式的な味わいのセネトを、実用主義のローマ人たちが、実用的に変えてしまったわけである。

 それと「タブラ」というのは、ボードゲームを意味するラテン語らしいが、古代ローマでは、基本的にタブラと言えばアレア(ルダス・ドデシム・スクリプトルム)だったようである。

サーサーン朝ペルシアのナルド

 ペルシア帝国(~7世紀)は、現在のイランのあたりを中心として栄えていた昔の国である。
おそらくギリシアやローマとの交易か、あるいは植民地化された際に、この辺り(中近東)にもタブラ、ルダス・ドデシム・スクリプトルはもたらされた。

 中近東に36マスのタイプのセネト系ゲームがかなり早い時期から伝わっていたのはほぼ確実とされる。
紀元前11世紀に建設され、紀元前5世紀からはギリシア国家スパルタに、紀元前2世紀頃からはローマに支配されたトルコ西部のエフェソスという都市の遺跡では、タブラをするためと思われるゲーム盤が彫られた石が結構見つかっているのだという。

 サーサーン朝(226~651)の時代には、そのゲームは「ナルド(Nard)」と呼ばれるようになっていた。
このゲームは創始者という伝説もあるサーサーン朝の開祖アルダシール(180~242 )の名前からつけられた名称らしい。
つまり、ナーウ・アルダシール(勇敢なるアルダシール)の略なのだという。

 1000年くらいに成立したとされるイラン最大の大叙事詩りょじしシャー・ナーメなどでは、6世紀くらいの人物であり、大賢者とされていた大臣のブズルグミフルが発明したとされているようだ。

 中世ヨーロッパで流行っていた、バックギャモン的ゲームは、 ローマ時代から直接進化してきたものではなくイスラム教徒たちからチェスとともに伝えられてきたナルドからの影響が強いという見方もある。
その場合、サイコロをふたつ使うという発想は、東で生まれたという説もある。

 また、ナルドをヨーロッパに紹介したのは、十字軍だったという説も人気である。

名前の誕生。中世ヨーロッパにて

 中世ヨーロッパにおいては、盤の見た目はバックギャモンとほぼ同じな「トリックトラック(Trictrac)」なるゲームがけっこう流行っていたという。

 Trictracは現在においては、単にバックギャモンのフランス語とされることもある。
ただこのように言われる場合、多少ルールが異なってはいるという。
というか、まだ名称やルールがしっかり定まっていなかった頃のいくつものバックギャモンのひとつであると考えられる。
おそらくは特に人気の高かったものだ。

 同じような時代に流行っていたチェスも、まだまだローカルルールが溢れかかえっていたような時代である。
チェス「チェスの歴史」将棋の起源、ルールの変化、戦争ゲームの研究物語将棋の盤面「将棋の歴史」複雑化する戦い。極限の面白さへの渇望  中世のものと思われる、トリックトラックをするための盤は、基本的には貴族や騎士の城とかで発見されているという。
ただそんな、しっかりとした遊技盤を所有していたのが貴族ばかりだったというだけだろう。
極端な話、盤双六(バックギャモン)なんて、砂にでも描いた24個のマスと石とかでも、ぜんぜんプレイ可能であるのだから。

 トリックトラック盤は、 チェスの駒など他のゲーム道具と一緒に発見されることも多く、トリックトラックが好きというより、ゲームが好きだった人が多いことがうかがわれる。

 やがてこのセネト系列と思われるゲームは、(おそらく13世紀くらいから) 遊ばれる国によって様々な名称で呼ばれることになっていった。

 トリックトラックと同じように広く知られていた、バックギャモンを指した名称に、「プッフシュピール(Puffspiel)」がある。
これはドイツ語による名称で、意味などは特になく、サイコロを振った時を表現する擬音だとされる。

 ほぼ確実にイギリス人が使い始めたバックギャモンという名称が、実際に使われだしたのがいつかは、結構謎だとされる。
しかしトリックトラックやプッフシュピールよりは後の時代らしい。

 このバックギャモンという名前は、17世紀には、ヨーロッパでかなり定着していたとされる。
諸説あるが、ギャモンはgamen(ゲーム)に由来するという説がある。
つまりバックギャモンはバックゲームである。

ダブリングキューブ。アメリカでの進化

 バックギャモンという名がかなり定着した17世紀。
20世紀のアメリカで追加された「ダブリングキューブ」を除き、このゲームのルールはもう今とほとんど変わらなかったろうとされる。

 ダブリングキューブとは、プレイヤーの片方が、自分のターンのサイコロを振る前のタイミングで、そのゲームの勝利点を倍にする「ダブル」を提案。
相手プレイヤーが拒否した場合、ダブルを提案をした側が1点の勝ちになるというようなもの。

 ダブリングキューブは、得点を倍にしてゲームを面白くするというより、勝敗がもうわかっているようなゲームをさっさと終わらせるという役割が結構強い。

 ただ基本的にこのゲームをかけのためのものだったから18世紀にルーレットが開発されてからは そちらが主流となり バックギャモンは廃れていったという。
あるいはカードゲームの方が人気になっていったという説もある。

 バックギャモンは、ヨーロッパの人たちが移住したアメリカの方が、結構しぶとく生き残ったようだ。
アメリカの自然「独立以前のアメリカの歴史」多文化な先住民。移民と植民地。本当に浅いか 賭博が禁止されている酒場とかでも、バックギャモンは大丈夫というような店が結構あったらしい。
これに関してはおそらく、バックギャモンが完全に運だけのゲームではなく、多少は戦略性があるからと考えられる。

 結局バックギャモンは、ギャンブラーの遊びというよりも普通に家庭で遊ばれるゲームに変化していったが、同じような変化をしたチェスに比べてかなり遅れた感があるのは、逆にこのゲームが運の要素も結構強かったからであろう。

日本にいつ伝わってきたか

 日本にはおそらく、ペルシアから、インド、中国、朝鮮を介して伝わってきたタブラであるが、その辺りのことはあまりはっきりしていないという。

 ただ8世紀初期くらいに成立したとされる日本書紀にすでに、持統天皇じとうてんのう(645~703)の頃、「双六禁止」というような一文があるとされる。
つまりこの頃には、賭け事として禁止令が出されるくらいには、双六というゲームが認知されていたということだろう。
そしてこの双六は一般的には盤双六(バックギャモン)だとされている。