「ハイチ革命」独立の指導者。結果と影響。司祭の演説伝説

カリブ海の黒人共和国

 中央アメリカの西インド諸島(West Indies)内の大アンティル諸島(Greater Antilles)はイスパニョーラ島(Hispaniola)の土のいくらかずつを、ドミニカ共和国(República Dominicana)と分けあった形となっているのが「ハイチ共和国(Repiblik d Ayiti)」である。

 カリブ海の国々の中で ハイチの独立は最も早い1804年だった。
これはアメリカ大陸全体でも合衆国に次ぐほどに早い。
アメリカ独立「アメリカの独立」宣言書、13の州、先住民、戦争により自由を  この国はまだ世界初の、独立した黒人共和国ともされている。

 そして「ハイチ革命(Révolution haïtienne)」とは、1791年からの奴隷たちの反乱の連鎖から、1804年の独立までの期間のことである。

自由への戦い

労働力として連れてこられた黒人奴隷たち

 コロンブス以降。
広大なアメリカ大陸のあちこちにヨーロッパからの侵略者たちがやってきて、植民地化していった。
イスパニョーラ島はスペインの支配下に置かれたが、1697年にその西側半分がフランスのものになり、「サンドマング(Saint-Domingue)」と呼ばれるようになった。

 フランスがサンドマングを得た頃には、先住民はもうほとんど絶滅していて、労働力を確保するためフランスは、大量の黒人奴隷をそこに強制連行してくる。
ついでに彼らに生産させるためのサトウキビやコーヒーなどの種も持ってきた。

カリブ海の真珠の秘密

 その地は、先住民社会の頃は島の自給自足状態だったが、フランスが支配し、黒人奴隷が働かされるようになってからは、完全に輸出産業を中心とした社会にシフトしていくことになった。
ヨーロッパにおいて人気だった砂糖やコーヒーのかなりの量の生産を担ったサンドマングは「カリブ海の真珠(Caribbean pearl)」と呼ばれるようにもなったという。

 実際にはカリブ海の多くの島が、奴隷産業でヨーロッパの国々の経済を支えたために、このカリブ海の真珠という呼び名は(現在では観光旅行のパンフレットなどで)多くの地域に適用されている。

 そして、遠くヨーロッパをうるおした黒人たちの強制労働は、ついには彼らの怒りを爆発させることになる。
その時までにも小規模な反乱はいくつもあったが、1791年の夏のそれは、 前例がないほどに大規模だったとされる。
サンドマング北部から、黒人たちの蜂起ほうきが次々と発生したのである。

奴隷解放宣言

 この大規模反乱には、フランス本国で起きていた革命(1789~1799) の影響もあったとされる。
そしてフランス本国は自分たちの内部の問題にかなりの気を取られ、サンドマングへの対応は後手後手になってしまった。

 さらにそのヨーロッパ側の政況せいきょう変化の余波が、植民地にも強い緊張状態を引き起こす。
ようするにイスパニョーラ島の東半分を支配するスペインや、 ジャマイカを拠点とするイギリスが、混乱状態のサンドマングを狙いあっていたわけである。

 このような状況の中、遅れながらもサンドマングにやってきたフランスの防衛軍は、スペイン、イギリスの脅威を退けるために、 奴隷としてしか見ていなかった黒人たちを兵士として使うことを決定する。

 どうもサンドマングの白人たちの多くが、奴隷を含む財産の権利を残す見返りとして、イギリス側に寝返っていたためらしい。

 そうして、理由はともかく、1793年8月。
サンドマングにて、フランス人たちは奴隷解放を宣言したのだった。
本国の方で、革命政府が奴隷制の廃止を決定したのが翌年である1794年の2月なので、奴隷解放に関してはこちらが先行する形となった。

理念か、利益か

 革命政府の奴隷解放の実現までの話し合いはかなり長引いていたとされている。

 奴隷を解放するべきと主張した人たちは、そもそもフランス革命の基本原則には、人の平等があるのだから、奴隷制度はおかしいというもの。

 一方で奴隷解放に反対していた人たちは、奴隷以上に植民地を失うことを危惧していたようだ。
すべての奴隷を解放するということは、ほぼ植民地の人たち全てに、本国の法律を平等に適用するということを意味していた。
そうなると、支配する側、される側という力関係が崩れていくのではないか、という心配があったらしい。

 (最初はイギリスの陰謀という説などもあったようだが)ハイチで奴隷たちの大規模反乱があったという情報が伝わってくると、フランスの世論せろんはむしろ奴隷たちに味方していたようだ。
フランス革命自体が、自由を求めて立ち上がった者たちの戦いだったとされているのだから、当然といえば当然である。

ナポレオンの差別主義

 とりあえずフランス革命の後、新たに権力者となったナポレオンのサンドマング(だけでなくフランスの黒人社会)に対する差別的な処置は酷かったために、解放されたばかりの黒人たちは勢いそのままに、独立意識を強めていった。

 ナポレオンは、奴隷解放宣言以降にフランスのものとなった、奴隷が存在する地域においては、開放は認められていないことを主張したりしたらしい。
また本国から離れた植民地において法的には奴隷制度がなくなったと言っても、白人たちの強い立場はなかなか改善される見込みがなかったという。

 彼は、黒人には文明を持つ能がないのだから、人権などないというふうなことまで言っていたらしい。

トゥーサン・ルーヴェルチュール

 トゥーサン・ルーヴェルチュール(1739~1803)もやはりアフリカの出身だが奴隷としてサンドマングに連れてこられた人であった。
しかし主となった人が比較的いい人だったようで、 読み書きを学ぶことができたという。
また、彼が書いた文書の署名にはフリーメイソンのマークらしきものが描かれていたようで、彼をその一員(サンドマングのロッジの者)とする説もある。
フリーメーソンのイギリス「フリーメイソン」秘密結社じゃない?職人達から魔術師達となった友愛団体  革命においては有力な将軍のひとり、あるいは最高司令官となり、政治的手腕にも長けていた彼は、 1801年7月に「植民地サンドマング憲法(constitution for Saint-Domingue)」を公布した。

 その憲法における「この領土において奴隷制度などというものは永久に廃止される」などという規定が、差別主義のナポレオンを激怒させる。
あらゆる決議などもフランスを介さず、植民地が独自に決めるというような内容でもあったから、 事実上の独立宣言とも受け取れた。

 トゥーサンは結局、本国が差し向けてきた使者に友好的な態度で騙されて捕らえられ、フランスの牢獄に収容されて、国の独立よりも前、1803年の4月7日にこの世を去ってしまう。

再びフランスに支配されるくらいなら死を選ぶ

 ナポレオンはトゥーサンを捕らえる一方で、暗号文章を駆使し、奴隷制復活のための政策も進めていたようだが、 結局その復活が実現しそうになってくると感づかれてしまい、黒人たちのさらなる反発を招くことになる。

 トゥーサンの後を継ぎ最高司令官になったともされるジャン=ジャック・デサリーヌ(1758~1806)率いる反乱軍は、 フランス軍 の基地を次々と襲撃し、倒していった。
そして1804年1月に、ハイチは本当に独立を宣言したのだった。
テザリーヌたちはその独立宣言にて「再びフランスの支配に戻るくらいなら死を選ぶことを、世界中と、これから生まれる全ての子孫たちに誓う」と述べたともされる。

黒人国家としての誇り

ブラックイデオロギー

 ハイチは、先住民が絶滅しかかった頃に、黒人奴隷が大量に連れてこられたということもあって、独立した時の国民はほとんど黒人か「ムラート(Mulatto)」だった。

 ムラートとは白人と黒人の混血のこと。
そこを支配していたフランスの白人たちも元は結構いたようだが、ハイチ革命の間に、死ぬか帰国するかしてほぼいなくなってしまったらしい。

 ハイチは最初から、独立した黒人国家であることに誇りを持っていたようだ。
1805年に制定された最初の憲法の中で「ハイチの国民は肌の色に関われなく黒人とする」という記述もあるらしい
おそらくは文字通りのブラックイデオロギー(黒の社会思想)だった。
そしてまだまだ地球上から消えそうにもなかった、黒人を奴隷を劣るとする思想に対する徹底的な反発でもあった。

ハイチ共和国、ハイチ王国

 国の政治体制も、王政が主流であったヨーロッパに対し、絶対権力君主を設定しない「共和制きょうわせい(republic)」にしたのは、身分制度への反発心ゆえだったのかもしれない。

 ただし、独立後最初の最高指導者にもなり、(ナポレオンに代わる)皇帝と自称したデサリーヌが暗殺されてから、しばらくハイチは南北に分裂し、北側は1811年から「ハイチ王国(Royaume d’Haïti)」を名乗っていたとされる。

 南北は結局1820年に合併して、ハイチに王はいなくなった。

 ところでハイチという国名には「山だらけの土地」という意味があるようだが、これは独立時点ではすでに過去の人たちだったろう先住民族「タイノアラワク(Taíno arawak)」の言語に由来するものらしい。
これは、ハイチを独立させた者たちが、自分たちと同じく白人たちに迫害され、ついには全滅させられてしまったのだろう先住民たちの想いまで汲んでいたから、とする向きもある。

ブワカイマンの儀式伝説

反乱分子たちの会議

 ハイチにおいて8月14日は、革命前夜にあったらしい「ブワカイマンの儀式(Bois Caiman ceremony)」という出来事が由来である記念日となっている。

 それは1791年8月14日のことだった。
ブワ・カイマン(ワニの森)と呼ばれた森にて、自由のための戦いを決意した奴隷たちが集まり、策を話し合った。
この会議自体は、ただの奴隷仲間同士の集まりで、白人たちに対し、実害はないという体裁たいさいを装っていたという話もある。

 そしてその8月14日に皆をまとめていたのは、革命の初期のリーダー(あるいは影響力の強かったひとり)とされるダティ・ブークマン(~1791)であった。

 この話自体は、反乱軍の者たちに勇気を与えたり、団結させたりするために作られた、嘘の伝承だったという説。
それどころか、革命の時代にはこのような話はなく、民族意識を高めるための後世の創作だとする説もある。
とりあえずこのような儀式が行われたという確たる証拠はないらしい。

ダティ・ブークマン

 ブークマンの故郷はハイチでなく、西アフリカの「セネガンビア(Senegambia)」だったとされる。
彼はイスラム教の聖職者だったらしい。
スペインの山「スペインの成立」イスラム王国の支配とキリスト教の抵抗の歴史  奴隷としてまずジャマイカに連れてこられ、それからハイチにやってきて、そこで彼は比較的有力な「マルーン(Maroon)」となったのだという。

 マルーンとはアメリカ大陸に連れてこられた黒人の内、奴隷工場から逃げ出して、そこで独自の自給自足コミュニティを築いた者たちである。

 しかし彼がイスラムの者だった点に関しては誤った記録という説もある。
出身もアフリカでなく、普通にジャマイカだったとする場合がある。

 ブークマンはまた「ヴードゥー(Voodoo)」のフンガン(男の司祭)であったともされる。
ヴードゥーは、アメリカ先住民の宗教、アフリカの宗教、キリスト教が混じり合ったもので、ハイチにおいて実質的な国教であり、植民地時代からの、虐げられた人たちの心の支えであった。

 ブークマン(Boukman)は本名でなかったようだが、どういう意図で作られたのかは諸説ある
例えば、彼の優れた知恵のために英語のbook man(書物の男)からのニックネームだったなどという説もあるが、ちょっと怪しい。

セシル・ファティマン

 ブワカイマンでの儀式とは、ブークマンがヴードゥーのフンガンとして行ったものともされる。
また、共に儀式を始めたマンボ(女の司祭)の相棒セシル・ファティマン(1771~1883)がいた。

 ファティマンは神秘的な傾向がブークマンよりも強いかもしれない。
奴隷の黒人女性と白人男の混血であった彼女には二人の兄がいたが、 そのどちらとも、奴隷貿易で離れ離れになってから、行方知れずだったらしい。

 サンドマングには、母親と一緒に売られてきたとされる。

 彼女の父は、フランス領コルシカの王であったテオドール・ド・ノイホフ(1694~1756)の孫、つまりコルシカの王子であった可能性が高いようだ。
姓とされるファティマン(Fatiman)は実はミドルネームで、アチマン(Attiman)。
フルネームはセシル・アチマン・コイダヴィッドだったという説が比較的有力。

 姓がコイダヴィッドだというのは、母の名がセレスティナ・コイダヴィッドだったようで、さらに妹がマリー・ルイーズ・コイダビッド(1778~1851)だったことが根拠らしい。

 セシルは、1845年4月16日から1846年3月1日までハイチの大統領となったジャン・ルイ・ミシェル・ピエロ(1761年12月19日-1857年2月18日)と結婚した。
またマリーは、共和国地域とは分けられていたハイチ王国の王であったアンリ・クリストフ(1767~1820)と結婚している。

仲間たちの勇気を奮い立たせた演説

 ブークマンとファティマンはブワカイマンでの儀式にて、ジャン=フランソワ・パピヨン、ジョルジュ・ビアソー、ジャンノット・ブレットの3人がサンドマングにおける奴隷の抵抗戦争を導くことになると予言したという。

 彼ら3人は実際に革命運動の指導者として活躍した者たちである。

 またブークマンは見事な演説で、そこに集まった者たちの勇気を奮い立たせたとされる。

「あの太陽を作り、我らに光を与えてくれた神。海を作り、雷をひびき鳴らす神は、雲に隠されても我らを見ていてくださる。我らの神は白人たちのあの非道な行いもちゃんと見ていた。白人の神は犯罪をそそのかす邪悪な神だが、我らの神は優しすぎて、ただ善行を積んでおけとばかり言っていた。だが今や、この我らの神は言ってくださっているのだ、復讐の時は今だと。 我々の戦いには神の加護があるであろう。だから今こそ我々は、同胞たちの涙の根源であるあの忌々しい十字架を捨てて、この心の中から湧き上がる自由を求める声に耳をしっかり傾けよう」
というような演説だったと伝えられている。

ヴードゥーの儀式か、黒ミサ的創作か

 閉会の前には、(司祭の魔法で起こしたのだろうか)雷響く大雨の中で、女司祭(セシル?)が器用にナイフを回しながら、アフリカ風の歌を歌った。
さらに豚を一匹、鮮やかに切り裂いて、その血をその場の者たちに配るというような儀式が行われたともされる。

 この儀式の内容に関しては、 反乱される側であった白人たちの思想の影響、あるいは改変があったかもしれない。
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早すぎた革命後の現実

かなりおかしな賠償金要求

 ハイチは革命により独立したものの、苦難の時代は続くことになった。
独立しようとする意志が強すぎ、少し犠牲を気にしなさすぎた面すらあると言われている。

 ハイチはなかなか発展できず、後進国として、後から独立した他の中南米諸国にもどんどんと置いてかれてしまうことになってしまう。

 理由はいくつも考えられるらしいが、 例えば重要な一つは、独立から間もない頃に、フランスに支払うことになった莫大な賠償金があるらしい。

 歴史上でも珍しいような話だが、フランスは植民地の恩恵を失ってしまったことから、独立したハイチに、 貿易などでの特別な待遇、いわゆる「最恵国待遇さいけいこくたいぐう(most favored nation treatment)」とともに、賠償金を求めたのである。
それはフランスにとって、ハイチを独立国として承認してやる見返り的な意味もあった。

 ハイチの独立はある意味で早すぎたと言えよう。
初めての黒人国家の独立は、高くついたわけである。

 結局交渉の末にハイチも承諾した金額は、フランという単位で1億5000万だが、これはそれが決定した時点でのハイチ政府の年収、つまり「歳入さいにゅう(government revenue)」の額の10倍くらいであったとされている。

 そしてハイチ政府は賠償金のために、国民の大半を厳しく農民として働くように、土地を所有する金持ちや、警察に取り締まらせたりもしたという。
あるいは奴隷だった時代とそれほど変わらない暮らしをする者も多かったのではないかと推測されたりもする。

 ちなみに賠償金の要求というのは稀に見るが、独立する自治体に対して経済的援助を一切しないとかの制裁を加えることは、よくあることらしい。

(注釈)白人たちが奪ったもの

 フランスがハイチに要求した賠償金に関しては、本当におかしいだろう。
独立したハイチは、独立した一国としてうまくやれなかったが、そもそもそれだって、そういう状況を作ったのはそこを支配していた白人国家だ。

 言ってしまえば白人たちは、先住民を殺しまくり、 無理やり移住させてきた者たちに関しても教育の機会などを奪った。
いわば彼らは潜在的労働者だったが、白人たちはそれらを奪って、弱らせたところを好き放題支配していたのである。

 それに忘れてはならないのが、白人たちの一番の目的は金銀財宝だったこと。
言ってしまえばヨーロッパは、アメリカ大陸全土に対して大強奪を行った罪があるわけである。

 (そんなものが本当にあると言うなら)人道的に考えるなら、フランスはむしろハイチがしっかり独立国として自立できるまで経済的な援助をし続けるべき立場であったと思われる。

アメリカ諸国の中での孤立

 ハイチはまた、同じように新興国だったアメリカ合衆国を友好的隣国として頼ろうともしたようだが、アメリカはなかなかハイチを独立国として承認しようとしなかったらしい。
これに関しては、特にアメリカは黒人奴隷制度を続けていたということがある。
ハイチに歩み寄ることは、奴隷制度を許している内政に影響を与えかねない。

 ハイチに続くように独立していったラテンアメリカ諸国も、ハイチだけは味方に見ていなかった節があるようだ。
そちら側の独立運動は基本的に植民地の白人クリオーリョが中心になっていたから、当然と言えば当然かもしれない。
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そしてそれはよくないものという差別意識が、全然まだまだ残っていた。

 そういうふうに周辺の国々の中で孤立してしまったハイチは焦り、ちゃんと独立するために、(皮肉にも)フランスに頼らざるを得なかったのかもしれない。