「アーサー・O・ラヴジョイ」存在の大いなる連鎖の哲学、その歴史について

第一原因から始まる巨大ネットワーク

 『存在の大いなる連鎖』は、観念の歴史を研究していたとされる、哲学者アーサー・O・ラヴジョイ(Arthur Oncken Lovejoy。1873~1962)の代表作として知られる
『存在の大いなる連鎖』は、アメリカ合衆国という国の20世紀に大きな影響を持っていたという。
存在の大いなる連鎖

 実際いつからだろうか。この世界(時空)の本当の意味での始まり、すなわち第一原因(神)から始まり、自然界の全ての物理法則、集合構造、そして生きとし生けるもの、この世界という集合構造を構成している要素群すべてを繋いでいる、巨大ネットワークという世界観が、1つの説として定着したのは。
この本(存在の大いなる連鎖)は、古代ギリシャくらいから始めている。そのような(全ての現象が第一原因からの連鎖であるという)世界観の考察の歴史を扱っている。
ラヴジョイ曰く、その思想は、西洋の宗教や哲学を2000年以上支配してきたらしい。

神とは何か

 西洋(アメリカとヨーロッパ)で長く支持された宗教(主にキリスト教)では、存在する世界の第一原因は、神と呼ばれる何かだと定義するのが普通。
そして、それに大した根拠があるようには思えないかもしれないが、その神とは、聖書で語られているヤハウェという(もともとはユダヤ教の神であると思われる)創造神。あるいは西暦と呼ばれる暦の始めに生まれたと伝えられている、人間の姿で一時的にこの世に現れた、神の子でもあるらしい神(イエス・キリスト)。とされるのが普通だったらしい
ただ、言うまでもないだろうが、紀元前の古代ギリシャには、キリスト教などなかった。 
しかしラヴジョイは、存在の大いなる連鎖、というその思想自体は、古代ギリシャの哲学にあると考えていたようだ。そこにはすでに神という存在に関する考察もあったと。

〔……もし「神」という時に(他の多くの一見相容れないものもであるが)最高度の善、あるいは永遠に最高度に善を所有する存在を意味するなら、そしてもし「善」が絶対的自己充足であるならば、そしてもしすべての不完全な有限時間的存在は、神的な本質とは同一視され得ないとするならば、そういう存在は(すなわち時間の中で感知し得る宇宙全体およびどんな意味でも真に自己充足していない意識のある存在(人間)すべては)実在に何等の美点をもつけ加えることは出来ないということが明らかに結論として出て来る。善の充足性は神において達成されてしまっているのであり、「被造物」は何もつけ加えない。それは神の立場からは価値が無い。被造物が存在しなくても宇宙の価値は下がらないであろう。
確かにプラトン自身はっきりと口に出してこういうような結論を引き出してはいないし、引き出さぬという事実に疑いなく意味がある。しかし彼の学説のこの部分が明瞭に意味するところの中に我々は、神は宇宙を必要としないし、宇宙と宇宙で起ることすべてに対しては無関心であるという何度も繰り返された哲学的神学者の定理の第一の源を認めなければならない〕
「プラトンの哲学」書評、要約。理想主義か、知的好奇心か

いったいどうやって、神様が善であると証明しろと言うのか

 善とは何か。神が善なる存在という結論も、キリスト教以前から普通にあると思われる。だがそれが神の一般的性質を意味するものでないというのなら、いったいなぜ、それが善であるとわかるのか。
〔理性と聖書から明らかである〕という1つの(明らかに証明になっていない)証明パターン(?)も取り上げられている。
ラヴジョイは、ギリシア哲学とキリスト教、それぞれの神の概念の、それこそ連鎖的な繋がりを想定しようとしていた節もある。事実そのような世界観の普及に、ギリシア哲学のいくつかの理論は確実に役に立ってきたろう。例えば中世のヨーロッパにおいては、聖書の記述に合致する世界観として、アリストテレスのいくつかの仮説がかなり好まれたとか。
太陽系 「地動説の証明」なぜコペルニクスか、天動説だったか。科学最大の勝利の歴史 「アリストテレスの形而上学」第一原因を探求。哲学者の偉大なる挑戦
 神が第一原因であるというのは非常に納得しやすい。しかしそれが絶対的に善であるというのは、宗教体系の根底にある、典型的な人間の願望の1つ、というような印象もある。
案外、善なる神という仮説は、いくつかの神の仮説を結びつけるための思考の中で、発生するのかもしれない。誰かの単体の神は、発生初期(最初の想像)においては、その誰かのための神というのが普通かもしれない。としたら、誰のためでもあるたった1つの神を想定するには、それが実は全てのための善なる神と結論したくなるのかもしれない。

 しかし(なぜそうなのかは置いておいて)実際に神が、絶対的な最高の善なのだとして、だとしたら、この世界はいったい何のために創られたのか。
例えば最高の善とは無限のもので、その無限の延長にすぎないというのだろうか。としたら、この世界そのものも善のみの世界となるはず。だが実際、(理由はそれぞれいろいろあるだろうが)この世界がただひたすらに最高善だと考える向きは、宗教信者の間でも、哲学者の間でも、ほとんど全ての(そういう悪とか善とかについて考えたことあるだろう)人にとっても、一般的な説とは言えないと思われる。
だいたい善は、ただそれだけ存在していて善なのであろうか。つまり何か、それよりもより善でないものが存在してなくても、それが善なんて言えるようなものだろうか。もし第一原因以前に何も存在しなかったのなら、なぜその第一原因(神)が善である、と言えるのか。
第一原因を基準に、その後の世界全てが決まるものなら、善というのは、つまり第一原因の初期状態そのものであると言えるかもしれない。だが、それなら単に最初の状態というだけのことであって、なぜ我々は、善を文字通りに善きものとして考えれるのか。
では、仮に第一原因が、すでにそれと比べれるようなもっと悪いものと一緒に最初から存在していたとする。すると、それは果たして本当の第一原因と言えるだろうか。

連続する万物

〔……知的な習慣においては、非連続的な明確に定義されたクラス概念によって思考する習慣と、連続性とか無限に微妙な色合いによって、或るものが他のものに移行するのだとか本質が重なり合ったりするのだとかいうように考えるから、類の概念全体は、現実世界の流動性、いわば重なり合いには本当は適用できない……
……W・D・ロス氏は、アリストテレスの「固定された種属と分割不可能な種の理論」と呼ぶものに言及して、これはアリストテレスが主として「観察された事実に親しく夢中になること」によって得た結論であったと言っている。
単に生物学的種においてのみならず幾何学的な形においても「たとえば三角形を等角や二等辺や不等辺三角形に分類することにおいて、彼は物の性質における厳密な分類の証拠を有したのである」〕

 まさに重要な問題の1つは、宇宙に隙間ができた場合に、何か問題があるのか、ということと思う。
確かに、生物種でも、物の形でも、何でもいいだろう。あるモノとモノを(それらだけを)見た時、そこに明らかな違いを認識できるとして、ではその中間は、この世界に実在しないだろうか。

 もし第一原因から全てが創造されていったと考えるならば、あるモノとモノの中間の不在は、まさに宇宙(時空間)の隙間になるだろうか。
全ての根源に共通の第一原因があるというのなら、全てのものは他の何かから変化してきたものと考えられる。しかし第一原因から直接に生み出されたモノも想定できるだろう。あるモノとモノの間の、つまり万物世界の隙間とは、単に神が何かを与えず、そしてまだモノの変化がそれになったことのないような、そういうモノであるだけかもしれない。しかしこの場合、世界は不完全なのだろうか。
森の扉 「無限量」無限の大きさの証明、比較、カントールの集合論的方法 素粒子論 「物質構成の素粒子論」エネルギーと場、宇宙空間の簡単なイメージ
 そもそも実在しないことは、あまり問題がないかもしれない。重要なことは、実在できるということ。
例えば全ての物事が第一原因とまだ繋がっているなら、本質的には万物は第一原因の延長した部分ということになる。普通に考えるなら、繋がったこの各部分は、第一原因という中枢を介して様々な情報を交換し合える。つまり物質的な変化とかだって可能と思われる。
だとしたら、逆に実現できないことというのはあるのだろうか。第一原因が無限であるならば、必要な情報や素材の量がとてつもなく大きなものでも、可能ということになるだろう。
そのような考え方は、魔術理論などにも取り入れられてきたと思われる。しかし、魔法は可能なのか?
音楽魔術 「現代魔術入門」科学時代の魔法の基礎
 ところで、万物は第一原因から生じるのだとしても、生成後にすっかり独立してしまったモノはあるだろうか。あるのだとして、それをどう考えればいいだろうか。
大まかには2パターンあると思う。神(第一原因)が、独立したものであっても、影響を与えることができるモノ。それと、もはや完全に影響を与えられない、どのような意味であっても完全に独立したようなモノ。
前者(独立はしてるが、神が、その気になれば影響を与えられるようなモノ)は、神もコントロールできていないようだが、しかしこうなってほしいというような要望があるらしい(つまりこの世界の世界観としてよくあるような)世界とかがそういうものなのかもしれない。
より興味深いのは、おそらく後者(完全に神から独立したモノ)だろう。そもそも神の存在する領域があるとして、そこから完全に独立した別の領域が発生できるというのなら、やはり我々の世界にとっての第一原因が、本当に第一原因なのか疑いたくなる。
だいたい、例えばこの世界が完全に神から独立したものなら、この世界の住民である我々にとって、元々の第一原因であった神というものに対するあらゆる崇拝に、精神的影響以外の意味が完全になくなってしまうだろう。神は、その偉大な愛で誰も救ってはくれない。だって、神はこの世界と関われないということになるから。
興味深いことに、このような独立した世界を信じるなら、それは第一原因(神)の存在を認めているにもかかわらず、その世界自体は、唯物論者の考える宇宙と似たようなものになると思われる。
「ルクレティウスの唯物論」物の本質について。無神論者の、全てを原子で説明する試み。 ニーチェ「ツァラトゥストラかく語りき」神なき世界の超人、永劫回帰

生物種の梯子構造

〔……自然な分類の可能な体系の数多いことをアリストテレスは認めていたのにかかわらず、後代の博物学者や哲学者に(すくなくとも)すべての動物を「完成」の度合いに従って単一の段階づけられた自然の梯子に配列するという着想を主として暗示したのは彼であった。
この梯子の基準としては彼は時には誕生の際の子供が到達している発達程度を採用した。そこで、人間を頂点とし植虫を最下位とする十一の一般的な段階が出て来ると彼は考えた。
『生命論』において有機体全部のもう一つの階層的な配列が暗示され、それがそれ以後の哲学と博物学にもっと大きな影響を及ぼす運命になった。この配列は有機物が所有する「魂の力」に基づいていて、その力は植物の限界である栄養を与える力から始まり、人間「および多分人間にまさるもう一つの種」の特徴である理性の力におよび、各々が梯子における下位のものの能力すべてを含み、その上でそれ自身の区別の目途になる能力を有している。
両系列ともアリストテレスがやった限りでは、只少数の大きな網目よりなっている系列を与え、それらの網目を更にこまかく分類したものは必ずしも似たような系列化をされ得なかった。しかしアリストテレスの形而上学と宇宙論の中には、すべてのものを秀れた順に単一の序列に配列することを許すように適用され得るような、はるかに具体性に欠ける概念があった〕

 実際に、極端な進歩主義的な生物世界は、多くの哲学者、生物学者たちに語られてきた。
もちろんそれは進化論と呼ばれる理論以前からある。そして、進化論に取り入れられる場合もあった(進歩主義的な世界観を取り入れた進化論は、変化の道筋が固定的)。
また、進化論以前の生物種の理論には、そもそも生物種が変化せず、種の順位は創造された時点から定められていた、というような考え方とかもあったらしい。
「進歩史観的な進化論」複雑性、巨大さ、賢さへの道は誤解か 「ラマルク。進化論と動物哲学」用不用説、生物世界唯物論、そして系統樹の発見の物語
それと、第一原因が最も完璧なる存在であり、全てはその一部でしかないのだから、完全ではないというような見方もある。この場合に、あるものから生まれるものは、必ずそれと同じものか、あるいはそれの劣化になってしまう。そういうわけだから、後に誕生したものほど劣化するという、進歩主義的な進化論とは逆の世界観も、かつてはかなり一般的にあったようだ(つまり優れたものが劣化していく世界観)
「近代生物学の人種研究」差別問題、比較解剖学、創造された世界の種
 しかし、単純に全てが第一原因の延長部であるなら、それに優劣があるのは、むしろ奇妙かもしれない。その部分に使われている要素の多さとか、構造の複雑性とかが、そのような順位に関係していると考えればいいのだろうか。だが、まさに全てが繋がっている全体構造の中で、何が個と考えることができるのか(それがちゃんと定義できるなら、より複雑な個が優れている、とか考えたりできるのかもしれないが)。
第一原因の本体という中枢で閉ざされている、ある構造(言うなれば第一原因から出っ張ってる構造?)が固だろうか。だが我々は普通にこの物質世界で、ぐちゃまぜになったり、バラバラになったりできるようにも思える(例えば普通の生物でそんなことを行ったら完全に死ぬだろうが、この場合この世界で死ぬとは?)。我々が共有している(としか思えない?)この世界は何だろうか。全ての固が第一原因で遮断されているというなら、構造が混じり合ったり、分解したりする時に、第一原因から始まる巨大ネットワークという世界の基盤では、いったいどのような動作が起きているのだろうか。

 1つ興味深いのは、例えば人間を特別にしている魂というようなものがあるのだとして、これも第一原因の連鎖の中では部分にすぎないはず。つまり物質と非物質というカテゴリーがあるとしても、それらは全て第一原因の一部というカテゴリーに含まれることにもなる。第一原因との繋がりが非物質的なものの神秘性も少し薄めてるような。

ここは世界の中心であるか

〔コペルニクスの説は、なるほど普通の人に対して平凡な頭脳の或る生まれつきの習慣の困難な矯正を要求した……しかし哲学的に進んでいた者にとっては、このことには本質的に新しく非正統的な点はなかった……観測者に対する見かけの運動の相対性という通念について言えば、それは結局すべての天文学者にとって当然なことであったに違いない。そしてコペルニクスはこれ以上のことは意味しなかった……
……神学上の正統説に対するコペルニクス説の主な侮辱は、後者と伝統的な宇宙像の哲学的要素との間の基本的な矛盾を生じたことではなくて、キリスト教が他の宗教には見られない程にその教義に取り込んで来た、純粋に歴史上の命題の集合の或る部分とコペルニクス説とが折り合わないらしいということだった〕

 科学の歴史において、最も重要なパラダイムシフト(大きな転換点)の1つと言われる、コペルニクス(Nicolaus Copernicus。1473~1543)の地動説。この仮説を支持する学者に対して、キリスト教会の迫害があったことは、ほとんど間違いない事実である。
しかしこの説自体は、古代ギリシャの時代にはすでに存在していたとされる。実際、星の動きを、感覚でなく計算によって理解しようとする時、地動説と天動説は一長一短だったろうと思われる。
「天動説の宇宙」アナクシマンドロスの宇宙構造。プトレマイオスの理論
コペルニクスが、ヨーロッパの学界に、廃れていたこの仮説を再び導入した時、反対する者たちの言葉はだいたい同じようなものだった。つまり「計算的には正しいように考えられるが、現実には違っている」とか。
つまりは、ラヴジョイが言うように、実際この仮説は、哲学的にも実用的にも、受け入れるのがそれほど難しいものではなかったろう。だが当時のヨーロッパで、一神教としては強い影響力を持っていたキリスト教徒たちは、なぜこの仮説を嫌ったか。
〔たとえば主の昇天の話は、コペルニクス的宇宙の図の中に適合し難いのは明らか……(聖書を)書いた人達が当然のこととして太陽が地球のまわりを回転することや、素朴な常識に由来する天文学の仮定を前提としていたことを明らかに示している聖書中の多数の章句を指摘するのは雑作ないことであった〕
ただし、よく知られているように聖書などは曖昧な記述が非常に多いから、解釈の変化も結構自由にできる。
とにかく、コペルニクスの説自体は、そこまで大きな問題だったはずがないとラヴジョイは言う。

革命的な5つの命題

 ラヴジョイは、16~17世紀くらいの天文学上の真に革命的な命題は5つあったとする。
それは以下の通り。
〔(1)我々の太陽系内の他の惑星に感覚を有し理性を備えた生物が住んでいるという仮定。
(2)中世宇宙の外壁が、外側の水晶球にせよ、有限の恒星界にせよ、打ち砕かれ、恒星が広大で不規則な距離に散ってしまったこと。
(3)恒星は我々の太陽と同じであり、その全部またはほとんどがそれ自身の惑星系に取り巻かれているという観念。
(4)こういう他の太陽系の惑星にも意識ある住民がいるという仮説。
(5)空間において宇宙が現に無限であり、その中に含まれる太陽の数も無限であるという主張〕
曰く、居住可能の世界が複数あるとする理論は、キリスト教信仰の中心的教義への、非常に強力な打撃になりえた。単純に、キリストの物語は、地球表面という一つの世界だけのためで、無限ではないとしても広大な宇宙には、キリストの説教などほとんど届いていないだろう、とか。
仮にキリストが、地球の神であったとして、それなら、少なくともこの宇宙全体の神ではない。だとすると、この神が第一原因という理論は何だったのか。

 ラヴジョイは、反コペルニクス的であったフランシス・ベーコン(Francis Bacon。1561~1626)が、「地球が動くと認めれば、太陽が中心である体系を組み立てるよりは、組織は無くて散らばった天体しかないと考える方がより自然だろう」と書いたことを拾い、注目する。
「フランシス・ベーコン」学問の進歩、ノヴム・オルガヌム。自然科学としての哲学
これ自体は、コペルニクスに説に反対するための、こじつけ的なものであるが、(宇宙全体か部分かも関係なく)宇宙という構造を幾何学的に見た場合の、重要な中心点に、地球でなく太陽を置くことの恐れがあったかもしれないと。
普通に考えて、地球がもしも宇宙の中心であったとするなら、それが特別な星であることは簡単に想像できる。
宇宙には規則的なシステムがないとして、完全に星々がバラバラに散らばっている場合でも、あくまでも地球は特別な星だと考えられるだろう。この場合は、宇宙のどこが特別で、どこが特別でないかを、ある意味好きに決められる(ただし、あらゆる仮説に根拠がなくなってしまうだろうが)。
しかし、太陽が中心であるなら、地球はその周囲を回る惑星の一つにすぎなくなる。もしもあちこちの恒星も太陽で、その周囲に惑星があるなら、最悪だったかもしれない。地球のような星がいくつもあるかもしれないのだ。宇宙が無限であるなら確実にあるだろう。そして地球のような星が他にもたくさんあるなら、生物のいる星が他にもたくさんあるかもしれない。生物の星があるなら、地球人以外にも意識とか知性があっておかしくない。だがキリスト教徒たちが信じていた唯一の神であるキリストは、明らかに宇宙全体ではなく、地球にばかり影響が偏っている。

 さて、人間とは何なのか。

コメントを残す

初投稿時は承認されるまで数日かかる場合があります。
「※」の項目は必須項目となります。
記事内容の質問などについて、(残念ながら管理人の知識的に)お答えできない場合もあると思います。予めご了承ください。

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)