「ジョン・ハンター」生涯と功績、進化論を実験で見つけた標本コレクター

田舎で農業を営んでいた家族

姉たちに甘やかされたわがまま少年

 1728年2月13日、あるいは14日。
ジョン・ハンターは(1728~1793)は、スコットランドのグラスゴー郊外イースト・キルブライドの農村で生まれた。
父ジョンは65歳、母アグネス(アン)は43歳。
田舎農場を営む夫婦の、彼は10人目の子供だった。

 一家の暮らしはかなりギリギリで、特に父は、彼の誕生をあまり歓迎しなかったようだ。

 ジョンが生まれた時。
10人の兄弟の内三人はすでに亡くなっていて、父は優等生だった 13歳のジェームズと10歳のウィリアム(1718~1783)に期待を寄せていた。
父はジョンと距離をおいたが、母の他、ジャネット、アグネス、ドロシー、イゾベルの4人の姉は、末っ子の彼をよく可愛がってくれたようだった。

 ただし、家の女たちから甘やかされた彼は、かなりわがままな少年に育ち、母の手を焼かせたとされる。

色々なものを観察して、色々なことに興味を持った

 幼い頃のハンターは、読み書きや、格式ばった勉強が嫌いな子供だったとされる。
学校もサボりがちで、自然の中で、虫や動物と触れあうのが好きだった。
虫取り網「昆虫」最強の生物。最初の飛行動物  当時のスコットランドは学校制度が充実していて、イングランドより教育水準が高いことが国民の誇りでもあったから、勉強ができない息子というのは、一族の恥とされてしかるべきだったらしい。

 ただ、ハンターは物事を観察するのは好きだった。
とにかく彼は様々なものを観察し、そして不思議なことを不思議だと考えた。

 なんで雲は動くのか。
雲「雲と雨の仕組み」それはどこから来てるのか? なんで植物は色を変えるのか。
なんで生き物は生まれ死んでしまうのか。
「死とは何かの哲学」生物はなぜ死ぬのか。人はなぜ死を恐れるのか  彼はよく、誰も知らないような(そもそも関心をあまり抱かれないような)ことを質問して、大人たちを苛立たせた。

本なんて役立たず

 彼の活字嫌いは、生涯にわたって一貫していたらしい。

 そういうユーモアだったのか、本は結構持っていたのに、それらを指して「こんなものは役立たずだ」などと彼はよく言っていたという。

 手紙も多く残っているが、自分で書いたものは綴りや文法がわりと滅茶苦茶とされている。
助手に代筆させることも多かった。
また彼の文章を編集する立場にある者は、間違いの修正に苦労したとされる。

 彼が読み書きを嫌っていたというのは、彼と敵対していた者たちにとっては格好の攻撃材料となった。
あるいは彼が読み書きが苦手なのは演技で、そうして盗作がばれないようにしているのだといった批判もあったようだ。

 しかし彼はひょっとすると、読書が嫌いだったからこそ、伝統的な教えや偏見に縛られることなく、「自分が目で見たものしか信じない」という信念を強く持てたのかもしれない。

解剖教室の助手

10歳上の兄ウィリアム・ハンター

 ジョン・ハンターが12歳の時。
兄の一人で、10歳離れたウィリアムは、実家を離れた。
彼はグラスゴー大学で学んだ後に、イングランドのロンドンに上京した。
イングランドイギリス(グレートブリテン及び北アイルランド連合王国)について フランスのパリと、オランダのライデンにおいても、解剖学を学んだウィリアムは、20代も後半くらいから、「外科医(surgeon)」として個人医院を開いていた。

 当時の外科医は、「内科医(internist)」に比べると社会的地位が低かったようで、ウィリアムは 少しずつ医者として名を上げて、いずれはロンドンで上級市民と見られていた、内科医になることを夢見ていたとされる。

 大切なのは医者としてどうというよりも、イングランド式の上流社会への適応だったようだ。
特にスコットランドは、1715年と1745年に大きな反乱を起こした反政府組織「ジャコバイト(Jacobite)」の勢力が大きかったということもあり、イングランド人たちの偏見は大きかった。
ウィリアムは、 自分のスコットランド風の言葉なまりや立ち振舞いを改めようとかなり必死に努力したという。

不安ばかりだった弟

 1748年の秋頃。
ジョン・ハンターは、兄ウィリアムが見てる前で切断された腕にメスを入れることになった。
それは彼の生涯で初めての「人体解剖(dissection of a human body)」であり、兄が用意した彼の採用テストだった。

 ウィリアムは開業から間もなく、シティ・オブ・ウェストミンスター(ロンドンの一地区)のコヴェント・ガーデンで「解剖学教室(Anatomy class)」を初め、好評を博す。
商売としてもなかなかのもので、忙しくなってきた彼は信頼できる助手を求めていた。

 そして白羽の矢がたった一人が、身内であるジョンであった。
もっとも兄の助手を願い出たのはジョンの方だったようだが。

 ウィリアムからしてみれば不安も大きかった。
弟のジョンは勉強嫌いで、二十歳になるその時まで、ただ実家でのらりくらり生きてただけみたいな印象であった。
本当は軍隊に入るはずだったようだが、そうなってしまうより数週間ほど前に、兄の助手になるという理由で、その予定を却下したのだった。

 おそらく、同じく医師を志していた長男のジェームズが生きていたなら、ウィリアムは彼に頼ったろう。
しかしこの時、もう彼はいなくなっていた。

好奇心と器用さ

 そのテストは、兄が指示する通りに解剖作業をなるべく正確に行うというものだった。

 実はジョンは軍隊行きの話が出る少し前に、大工見習いとして短い期間、働いていたこともあり、刃物の扱いにはある程度慣れていた。
そして、昔からの生物学的な好奇心や、手先の器用さも重なって、彼は兄の期待以上の成果を見せることができた。

 ウィリアムはさらに、ろうで血管に色をつけた、また別の腕を用意して、肉から血管だけを切り取るように言ったが、それもジョンは上手くやった。

 兄はこの時、初めて弟を高く評価したともされる。

 どうもウィリアムは、将来的には弟を一流の外科医にして利用し、自分は内科医として裕福層の社会に溶け込もうというふうに、計画していたらしい。

墓荒らし事業

 ジョン・ハンターは、兄ウィリアムの解剖学教室を助手として手伝いながら、自分自身もそれで外科医の技能を学んでいった。

 それともうひとつ。
彼は非常に重要な仕事を任されていた。
解剖対象となる死体の収集である。

闇ルートの汚れ仕事

 解剖学教室をやっていくためなのはもちろん、外科医を目指すならば人体解剖の経験を積んでおくべきなのは当然といえば当然だった。
でなければ、最初にメスで身体を切り裂く相手が生きた人間ということになってしまいかねない。

 そもそもウィリアムの教室が人気を集めていたのも、本格的な実習にあった。
生徒が増えれば増えるほど、ますます大量の死体がいる。

 死体の数自体は大量にある。
ロンドンは人口が密集した都市だし、いつでも病気が流行っていた。
だが実際に、それらを調達することはなかなか困難な任務だった。
まして、身元の調達方法もバレないと保証され、しかもまだ大して腐敗していない新鮮な死体を手に入れるには、いわゆる闇のルートを使うしかない。

 ウィリアムとしては、これから立派な上級市民を目指すというのだから、あまり自分の手を汚したくはない。
そこで弟ジョンにその役目が託されたのだった。

 ジョンはその汚れ仕事を甘んじて引き受ける代わりに、食事や住まいは用意してもらった。

最後の審判の時

 死体を手に入れるのが困難だった理由としては、当時の人々の宗教観も関係しているかもしれない。

 たとえ死後であっても、体を切り裂かれるというのはかなりの恐怖であった。
聖書の話を信じている人は多く、もしも死んだ後に体が切り刻まれた場合、最後の審判の日に蘇ることができないのだという説が、けっこうまかり通っていたのだ。
十字架「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束  まだ当時は、生きてるか死んでるかの判断が結構適当だったようで、死んだと思われた人が解剖している途中に蘇るという現象が普通に知られていたらしい。
吸血鬼の夜「吸血鬼」能力に弱点、退治方法まで。闇の貴族のすべて それを恐れる人も多かった。

タイバーンでの戦い

 1748年10月28日。
その日は、ジョン・ハンターが兄の助手となってから最初となる、ロンドンの「タイバーン(Tyburn)」での「公開絞首刑こうしゅけい(Public hanging)」の日だった。

 当時のロンドンでは毎年50人くらいの「罪人(sinner)」が、処刑台に立つことになっていたらしい。
絞首刑は基本的には庶民たちの娯楽的な見世物でもあり、外科医を志す者や、死体調達を任されている者たちにとっては、最も「合法的(legal)」に死体を入手できる場でもあった。

 またタイバーンは、イギリスはミドルセックスにあった村で、絞首台が設置されていた場所として歴史的に悪名高い。

 絞首刑が始まってからしばらく経つと、まだ死んでるかどうか微妙なくらいの罪人に、その死体を手に入れようとする人たちと、そういう人たちを阻もうとする「遺族いぞく(bereaved family)」などが群がり、けっこうな戦いとなる。
一応建前としては、人並みの「埋葬まいそう(burial)」をしてあげる権利を奪い合っていたのだという。

 また、その争いも関係のない第三者たちからしてみれば、面白い娯楽だったとされる。

 その日は、9人の男と1人の女が処刑された。
ジョン・ハンターは細身ではあったが、実家で野良仕事をやっていた田舎者らしく、それなりの力があり、 争奪戦の結果は上々だったという。

 以降もジョン・ハンターは、タイバーンに行く度に、死体調達に成功する。

解剖学者と葬儀屋

 外科医含む当時の「解剖学者(Anatomist)」は、遺族以外にも、「葬儀屋(mortician)」や罪人自身にも売買交渉を試みた。
葬儀屋は言わずもがな金だが、罪人は死ぬ前の最後の贅沢を求めたりしたようだ。
だから当時は何も知らない遺族が、石や砂ばかりで中身を満たされた棺桶を埋めるということが結構あったという。

 ジョンも当然、力づくの方法以外に、「賄賂わいろ(bribe)」なども駆使した。

 また死んだ自分の親族に関しては、もっとも簡単に手に入る死体となった。

 一方で、解剖されることの恐ろしさを最もわかっていたのは、解剖を行う者たちだったようで、「自分の遺体を解剖しないでほしい」という遺言を残す外科医は多かったらしい。
自分の棺に鍵をつけるように、遺族に頼んでいた人もいたとされる。

求めていたもの

 処刑された罪人というのは、解剖対象としては非常に重要とも考えられていた。
何せ彼らは仕方なく死んだのではなく、突然に死んだのである。
表紙は自然死した者に比べると、比較的健康な状態が残されている場合が多いのだ。

 だがただでさえ求めている者が多いのに、処刑されるほどの罪人はそれほど多くない。
それにウィリアムは「産科医(Obstetrician)」を目指していたから、特に「妊婦(Pregnant woman)」の死体を求めていたが、当時のイギリスの法律は、妊婦を終身刑に処することを禁じていた。

 そもそも墓にまだ入っていない死体というのは少なすぎる。
数を求めるジョン・ハンターが、すでに墓地に眠った死体に目を向けたのは当然の流れであった。

泥棒と法律

 ハンター兄弟は、「墓荒らし(grave robbing)」などと呼ばれる墓泥棒を事業として拡大させた立役者だった。
彼以前の時代からも「死体盗掘とうくつ(Corpse stealing)」は行われていたが、ジョンはそれをマーケットとして拡大させていった。

 墓泥棒のプロの団体なども生まれ、死体盗掘を専門とする組織同士の抗争まで発生した。
墓の管理人や、見張りも買収されることが多かった。
なるべく音を立てない土の掘り方や、わずかな明かりで素早く周囲をチェックする手法などが、ひそかに教え伝えられ、学ばれた。
このビジネスが最盛期の頃の凄腕のチームなら、数百の死体を一晩で盗むこともできたという。

 18世紀が終わる頃には、ヨーロッパを離れたアメリカにまでその仕事は伝わり、 各国で大きな社会問題となった。

 一応1832年に、 医師免許を持つ者が死体の取引を合法的に行うための「解剖法(Anatomy Act 1832)」が制定されると、イギリスではこの問題は落ち着いたらしい。

 しかし当時は、墓荒らしなどまだマシで、ウイリアム・バークとウイリアム・ヘアのような、外科医に売る解剖用の死体を手に入れるために、殺しをする者までいた。

一番の買い取り手

 ジョンは、最初は自らショベルを持って夜の墓を探索したらしい。
しかし効率を考えてプロを雇うことにした。

 解剖学者を顧客こきゃくとする墓泥棒は18世紀の初期頃から現れはじめる。
彼らは掘り起こした死体を袋に詰めて運んだから、「袋詰め屋(Bagger)」などと呼ばれ、民衆からは恐れられていた。

 本命は死体が身につけている指輪などの金目のもので、解剖学者に死体を売るのは副業というふうに考えている袋詰め屋も多かったようだ。

 また、解剖学者たちは自分たちの手を汚さないことによって、雇った墓泥棒をうまく、民衆の非難に対する「スケープゴート(scapegoat。身代わり)」にしていたらしい。
しかし実際のところ当時捕まっても死体泥棒は大した罪ではなく 少しの間刑務所に入ってる間の家族の世話などは 泥棒を雇う外科医が 引き受けてくれていた。

 政府の役人などは、優れた外科医が少ないことをわかっていたから、その所業を放置していた。
そもそも貧乏な者の墓ほど無防備な状態だったから、上流階級の墓が狙われることはあまりなかった。

 法律を味方にジョン・ハンターはもっともやりたい放題だった。
きっかけは兄の命令だったとしても、いつからか彼自身、人体のしくみに強い興味を覚えるようになり、そして何より、街の闇に包まれたそのあくどい仕事を楽しむようになっていく。

 田舎訛りを隠さない酒好きと、気取ったところがない彼の評判は暗黒街で高まり、ジャックと愛称で呼ばれることが多かった彼は、 墓泥棒たちにとって一番人気の取引相手になっていった。

 実際に彼が仕入れた死体のほとんどは、身元や死因が一切不明だったとされる。
しかし彼は、兄ウィリアムが求めたなら、普通なら難しかったはずの妊婦や赤ん坊なども含め、あらゆる死体を持ってきた。

 ウィリアムは後に「妊娠(pregnancy)」と「子宮(Uterus)」に関する本を書いたが、これはかなりジョンの功績だったとされている。

最高の外科医の弟子

ウィリアム・チェゼルデン

 ジョン・ハンターには本当に解剖の才能があったのだろうか。
彼がやってきてからたった半年ほどで、ウィリアムは弟に講義の時の解剖を任せるようになった。

 ウィリアム自身は、講義自体は自分で続けたが、それはそれで素晴らしく評判に偽りなしであった。
かつては勉強嫌いだったはずのジョンも、それで熱心に学べたとされる。

 ジョンが解剖を任されるようになってから、教室の人気はさらに上がった。
真面目な雰囲気の兄に比べると、かなり気さくで話しやすく、生徒たちとも年齢的に近い彼は、失礼な喋り方や短気といった欠点もあったものの、すぐに人気者になった。

 解剖学者にとって夏は基本的に休みだった。
そして兄の助手になってから最初の冬が終わった後、ジョンはしばらく田舎に帰ろうとしたが、兄は優秀な弟に、真の意味での実習を勧めた。

 そうして1749年の夏。
ジョン・ハンターは、チェルシー王立病院にて、高名な外科医であったウィリアム・チェゼルデン(1688~1752)の下で見習いをすることになった。

なぜ師を引き受けてくれたか

 チェゼルデンは、「膀胱ぼうこう(bladder)」に関連した外科手術のスペシャリストとして有名であった。
後にジョン・ハンターもそうしたように、貧しい患者からは報酬を受け取らず、上流階級の患者には多額の金を要求する医者だったという。

 当時、外科医となるための正規のルートとされたのは、15歳くらいの頃から数年の奉仕期間を得た後で、ようやく師匠から技術を学び、その後はさらに病院にしばらく勤務して経験を積んでから、ようやく自分で開業というような感じだったらしい。

 しかし当然のことながら、本来とは違う裏道ルートを使って外科医になる者もいて、ジョン・ハンターはその典型例であった。

 当時すでに21歳と、奉仕期間の標準年齢を過ぎていただけでなく、プライベートでは酒場に入り浸っていて、見習いらしい禁欲的な暮らしなどとてもできそうになかったジョンの弟子入りをチェゼルデンが受け入れてくれた理由は、ウィリアムの多額の謝礼だったとされている。

古い理論に疑問を持つこと

 実際に生きた人間を相手にする外科医の見習いとして、ジョンが学ぶことは多かった。

 イギリスで一番とも言われたようなチェゼルデンほどの医師でも、腹や胸を切り裂く手術はできなかった。
基本的に行われたのは、「瀉血しゃけつ(Phlebotomy)」、「うみの切開(Incision of pus)」、「性器の問題の治療(Treatment of genital problems)」などが大半であったようだ。

 瀉血は、 治療のために行われた、血液の一定量の抽出。
膿は、傷口などから溢れてくることがある、現在は死んだ組織などが由来と考えられている液状の余計なもの。

 メスで切り裂くのは基本的には手足や頭や性器に限定されていた。
体を大きく切り裂いた場合は、それによって発生する新たな感染症や多量の出血でどうせ助かることはなかったからだ。

 何より重要なことは外科手術の現場の当時の悲惨さをが実感したことだったとされている。
ジョンの師匠がチェゼルデンであったことは幸運だった。

 それこそ彼が優秀な外科医だったからなのかもしれない。
チェゼルデンは、それまでの外科医の多くが、根拠もなく、やたらとこだわっていた古い方法や理論に疑問をしっかり持ち、自分の目でしっかり観察し実験することの大事さを説いた。
成功の見込みが薄いと考える手術などを避ける一方で、怪しいと考えられるようなどんな方法もちゃんと試してみて、使えると判断したものはどんどん自分の治療に取り入れていった。
この師匠のスタイルは、そのままジョン・ハンターに受け継がれることになる。

見習い医師の標本作り

 チェゼルデンの弟子であった時期はわずかで終わった。
弟子入りからほんの3年ほどで、彼は世を去ってしまったから。

コヴェント・ガーデン

 ジョン・ハンターは次に、聖バーソロミュー病院に勤務していたパーシヴァル・ポット(1714~1788)の弟子となった。
ジョンは夏の間は彼の下で働き、秋から冬にかけては兄の教室にまた戻った。

 ジョンがロンドンに来た時、ウィリアムは下宿暮らしをしていたが、1749年の9月から、兄弟はコヴェント・ガーデンのグレートピアザ一番地の家へと引っ越す。
それは地下室と屋根裏部屋を合わせたら5階建ての広い家で、兄弟は目立たない裏手に解剖のための小屋も用意した。
また、講義用の教室や、標本室もあったという。
どうも場所が、商売人の声が響く広場に近く、さらに治安の悪い地域のため、夜は酔った人などがうるさいという問題もあったらしい。

 家が十分広かったために、ハンター兄弟は住み込みの弟子を取るようにもなる。
ここに住んだ者は、解剖学はもちろんのこと、おそらくは墓地泥棒の方法も仕込まれたとされていて、結果的に言うなら、たいていが優秀な医者になったとされる。

標本の二つのタイプ

 ジョンは、視覚的に注意深く観察することや、腐敗臭や、人体組織が奏でる微妙な音に敏感であること。
それに何よりも、分析に味覚を使うことを重視していて、弟子たちにもそれを教えたとされる。

 ジョンは、人体内の液という液を飲んで、その味を分類していたらしい。

 さらに様々な状態で死んだ人の内部の標本を用意して、生徒たちに病気の進行具合の見極め方を覚えさせた。

 標本には「乾燥かんそう(Dry)」したタイプと、液体に浸したものがあったが、乾燥したものの方が簡単に作ることができたようだ。

 標本にしたい部分、骨とか筋肉とか臓器に、「ニス(Varnish)」のような保護塗料とりょうを塗って、しばらく空気にさらしておけば完成する。
しかし乾燥タイプの標本は劣化しやすいという欠点があった。

 液体に浸したタイプの標本には、19世紀末くらいからは、「メタナール (methanal)」とも呼ばれる有機化合物の「ホルムアルデヒド (formaldehyde)」を使うのが主流となるが、ジョン・ハンターの時代では、アルコールが使われていた。

 基本的に、それぞれの解剖学者は自分が使う独自の標本用アルコールの製法を秘密にしていた。
ジョンも最初は、兄から教わった製法を使っていたが、自分で繰り返し標本を作る内に、独自の製法を開発したとされている。

 ジョンが作る標本は、血管や臓器など、注目すべき部分を着色して、観察しやすくなっていたという。

最初の患者と治療

 記録に残っているジョン・ハンターの最初の患者は、聖バーソロミュー病院に入院してきた煙突掃除夫えんとつそうじふだったという。

 その人は、「尿道にょうどう(urethra)」が異物で狭まってしまう「尿道狭窄きょうさく症(Urethral stenosis)」を起こしていたらしい。

 ジョンはまず、「ブジー(bougie)」 という、器官内の探索や拡張に使う管状の医療器具を使い、わりと無理やりに異物を取り除こうとしたが、これは失敗した。

 そういう物理的なやり方は、伝統的な方法であったが、次にジョンが試したのは、ややすたれていた方法だった。
彼は加熱した酸化水銀や硝酸銀などを使い、「焼灼しょうしゃく(cauterization)」、つまり異物を焼いてしまう方法を試してみることにした。

 水銀では失敗したものの、硝酸銀の時にはついに上手くいく。
2週間ごと4回の焼灼で、患者はすっかり治ったのだった。

 こうして(おそらく複数回にわたって地獄を見せてしまったものの)ジョンは掃除夫を苦しみから救ったのだった。
ガス麻酔「麻酔手術を変えた人体実験」笑気ガス、エーテル、植物エキス  とにかくいろいろな方法を試し、上手くいかなかった場合は上手くいくまで改善し、次に同じような症例に会った時のために、すべての過程を記録してもいく。
それがジョン・ハンターが生涯にわたって続けたやり方で、それはやがて外科医の標準の方法となっていくのである。

人体解剖というタブー

 人体の解剖は長い間タブーとされていた。
古くは紀元前3世紀頃のアレクサンドリアで、生きた人間(罪人?)を切り裂いた記録があるらしい。
なかなか残酷なその所業は公共の場で行われ、それまでいくつもあった人体に関する勘違いを正したという。

 しかし人体解剖はまたタブーに戻った。

 解剖学という分野を大きく後退させた者の代表格とされているのは2世紀頃のローマのガレノスである。
彼は、「病気は体内の液体の不均衡から」という古くからの教えを支持して、すべての病気の治療法として大量の瀉血を推奨すいしょうした。

 現代的な観点からしてみれば、ガレノスの教えは何の医学的根拠もない。
そして人間の内部を一度も見たことがない彼のその教えは、かなり広く、19世紀まで影響を及ぼし続けたという。

 14世紀からはイタリアなどで人体解剖が再び行われるようにもなったが、どうも、大学でガレノスの教科書を学ぶ偉い教授たちからしてみれば、ただの悪趣味なパフォーマンス的なものでしかなかったらしい。

 医学のために人体を解剖するという考えを持ち、 ガレノスの呪縛を最初に脱したのは、今では現代解剖学の始祖とも言われるアンドレアス・ヴェサリウス(1514~1564)だったとされる。
自分自身で人体解剖をするうちに、ガレノスの多くの間違いに気づいた彼は、自分で出来る限りその間違いを正した「人体の構造(De humani corporis fabrica)」という本を世にだす。
その本の登場が現代的な意味での解剖学の始まりだったとされている。

兄と友人と敵

ヤン・ファン・リムスダイク

 ジョンの才能の開花は早かったが、最初彼の功績は全て、兄のものにされてしまった。
解剖したり標本を作る機会を与えていたのも、そのための資金を提供していたのも自分なのだから、弟の仕事は全て自分の功績というのが、ウィリアムの言い分だった。

 またウィリアムには、ヤン・ファン・リムスダイク(1730~1790)というお抱えの画家がいた。
彼は、ウィリアムが自分の研究を交渉するにあたって、解剖された死体の絵などを描いたが、彼の仕事もまた、あまり表に出されなかったという。

胎盤と母体の血液循環に関する発見

 ジョンの不満は当然大きくなっていったが、1754年の5月頃に決定的な出来事が起こったとされる。

 ジョンは友人のマッケンジーから協力を依頼される。
マッケンジーが助手をしている産科医のウィリアム・スメリー(1697~1763)は、妊婦の死体を手に入れて、「胎盤たいばん(placenta)」の血管を着色したものの、構造が複雑すぎて分析をなかなかできないでいた。
そこでマッケンジーは、兄ウィリアムの要望のために妊婦の解剖にも慣れていたジョンに助けを求めたわけである。

 ジョンはその妊婦の胎盤をマッケンジーたちの期待通りに解剖し、血管を調べた。
そして彼は、それまでの常識をくつがえす、ある発見をした。

 それまでは、胎盤と母体の血管は繋がっていて、血の流れを共有していると考えられていた。
しかしジョンはその時、その考えが間違いだったことに気づいたのだ。
複雑に絡み合っていたような胎盤と母体の血管は、栄養のやりとりなどはしていても、血の流れを共有してはいなかったのだ。

 ウィリアムは弟から話を聞くと、いつの間にやらスメリーたちが持っていたはずのその証拠標本をも入手し、まるでそれが自分の発見かのように、講義で述べるようになったのである。

妊娠中の人の子宮の解剖学の図解

 ウィリアムは後に、妊娠と子宮に関する自身の本「妊娠中の人の子宮の解剖学の図解(Anatomia uteri umani gravidi。The anatomy of the human gravid uterus exhibited in figures)」の中でも、胎盤の血液循環は自分の発見だというふうに書いたとされる。

 Anatomia uteri umani gravidiは、1774年に、製本職人ジョン・バスカービル(1707~1775)により出版された。
妊婦の子宮は胎児の各段階の様子を明確な図として並べた、この大型本は非常に高く評価されウィリアム・ハンターの名を不動のものにした。
しかし、その解剖作業を行っていたのは弟のジョンや彼の後釜の助手たちで、絵を描いたのはリムスダイクである。

進化への研究

 1755年頃から、ジョンは独立する意思をはっきりと見せるようになっていく。
彼は兄が担当していた講義に、自分も積極的に参加するようになった。

 兄に比べるとジョンの講義はぎこちなく、下手くそだったとされているが、よく冗談をまじえ、親しみやすい彼の講義はむしろ好評だった。

 本嫌いのジョンは、ガレノスもアンドレアスもわりとどうでもいいと考えていた。
彼の興味は自分が直に見た人体の構造。
人間はどんな仕組みで生きているのか。
そしてどうすれば死にそうな人を救えるのかということだけだった。
それにすでに実験で明らかにされているとされたことでも、納得できないことがあれば、彼は自分でもその実験を試みた。

 また、下等動物を研究することは無意味としていた兄の考えは無視し、ジョンは手に入るあらゆる動物の死骸の解剖もして標本にした。
人体を解剖した時には、複雑すぎてわからないことを調べるのに動物はうってつけであった。

 人間だけでなく、あらゆる動物の体内の機構に通じていて、それらの類似点を見抜いていたジョンは、「進化(evolution)」という概念を理解した、最初期の一人だったとされている。
進化の分かれ道「進化論」創造論を最も矛盾させた生物学理論ダーウィンの家「ダーウィン」進化論以前と以後。ガラパゴスと変化する思想。否定との戦い

胚発生の経過観察

 ジョンはさらに、高名な多くの科学者がすでに確かめてもいたという、「胚は最初からその生物のミニチュア」という説に疑問を抱き、1755年に自分でも実験してみた。

 (おそらく非合法な手段で入手したものもあったろう)大量のニワトリの卵を、段階ごとに割って中身を確かめて、 生物がどのように発生するのかを確かめた。

 ジョンは、リムスダイクにスケッチ記録をとってもらいながら、まず脳と脊髄に、次に器官に四肢、まぶたや歯が発生するという流れを見た。
最初からミニチュアがあるのではなく、単純構造から複雑な構造へと変化していくという発生過程があるのは明らかだった。
卵「胚発生とは何か」過程と調節、生物はどんなふうに形成されるのかの謎  しかしその発生についての発見に関して、慎重を期したのか、ジョンはすぐに発表しなかったために、カスパー・ヴォルフ(1733~1794)に先を越されている。

数多くの敵

 1750年代も終わり頃。
上流階級との関係をさらに深めるためにウィリアムは引っ越し、妹ドロシーとともにピカデリーの屋敷に住むようになった。
コヴェント・ガーデンに一人残ったジョン・ハンターには、すでに多くの支持者と、そして敵もいた。

 特に聖ジョージ病院にて、3年の下積みしながら下級外科医のポストをジョンに取られたジョン・ガニング(1734–1798)は、生涯そのことを根にもった。
ちなみにジョンは半年ほどでその辞職し、ガニングがすかさず後釜となっている。

 また、ジョンのかつての恩師パーシヴァル・ポットや、ウィリアムのかつての恩師の子アレクサンダー・モンロー2世(1733~1817)など、ハンター兄弟の研究成果を教室、あるいは個人的に聞いて、先に発表してしまう名誉泥棒たちも厄介だった。

 もちろんジョンからしてみれば兄も、自分の標本や発見を奪っていくやな奴だった。

倫理と動物実験

 「弟は生理学の謎に強い興味を抱いているらしい。最近は生きた動物での実験や、比較解剖学にばかり没頭している」とはウィリアムの言葉らしい。

 兄や恩師らが功績を奪い合う最中。
ジョンは、生きた動物の研究に夢中になるようになっていた。

 彼は生物がどうやって生きているのかを知りたいがために、多くの生物の命を奪っていった。
生きた動物の腹を無慈悲にも切り裂き、冷静な目でその内部がどうなっているのかを観察した。

 別に当時、生きた動物をおおやけの場で解剖する学者はジョン・ハンターだけでもなかった。

 動物を犠牲にする行為に関しては、認識的には現在とそう変わらないかもしれない。
人間に比べるとたいていは大目に見られるというか、多くの人は無関心だったが、一部の動物の場合は激しく非難されることもあった。
倫理学「人間と動物の哲学、倫理学」種族差別の思想。違いは何か、賢いとは何か  作家のサミュエル・ジョンソン(1709~1784)などは、「無能な解剖学者たちは犬を縛り付けて、どうすれば死ぬかを確かめることに夢中になっている。だがそうして得られた知識で役立つものなどひとつもない」などと、生きた動物の解剖に関して痛烈な批判をしたりしているという。

 ジョン・ハンター自身はどうであったか。
彼は動物実験をいたずらに繰り返すことだけは絶対によくないと、よく述べていたそうだ。
生きた動物の解剖は、あくまでも医学の向上のためであって、すでに知られた知識を確かめたりするための実験などはダメ。
ただし新たな知識を得たり、それを利用する術を見つけるための実験はするべきだとしていた。

軍医として戦場を見る

 ハンター兄弟の講座は、 1760年にジョンが体調を崩した事で終わりを告げた。
原因は不明であるがおそらくは「肺炎(pneumonia)」だったのではないかとされている。

 結局、それほど重篤じゅうとくにはならずに体調は回復したようだが、元気になったジョンはウィリアムから完全に独立することを決意した。
しかし正式な教育を受けておらず、資格なども持っていない彼は自分で開業する事すら出来ず、軍の外科医に志願することにした。

絶好の訓練場

 イギリスはフランスと、植民地などをめぐって戦争中だった。
ベティ号という船の船医となったジョン・ハンターは、物資が限られ、衛生状態も悪い中で手術経験を積んでいく。

 戦場こそが外科医にとって絶好の訓練場だということはよく知られていて、それを経験した者は、たとえちゃんとした教育を受けていないものであっても、帰還した後、一般人を見る権利を得ることができた。
そしてジョンもそれを知っていた。

自然治癒能力への信仰

 戦場でもジョン・ハンターが一番信じていたものは自分の経験則だった。

 負傷兵士の数に対して、医者の数はあまりにも少なかった。
相手の場合は助けられない。

 ジョンは、目上の者の命令など聞かないで、自分のやり方を貫いた。
自分自身も何度も失敗しながら、なぜ失敗したのかを観察し、そして もっと良い方法を試そうと常に考えていた。

 銃で撃たれた兵士の傷の処置に関しては、何よりさっさと傷口を広げて、弾を取り除くのが大事とされた。
これはまともな方法だろうが、ろくな設備もない環境では逆に危険でもある。
当時は病原菌の存在なども知られていない。
理科室「微生物の発見の歴史」顕微鏡で初めて見えた生態系 麻酔もなしに無理やり傷口を広げた外科医たちは、手袋もしないで弾を取り除いていたのだ。

 ジョンももちろん 病原菌の存在など知ってはいなかった。
しかし彼は経験的に、生物が高い「自然治癒能力(Natural healing ability)」を持っていることを知っていた。
彼は外科手術は最小限にと考えた。
たとえ鉛弾を体の中に残すことになっても、むしろ掘っておく方が患者が助かる可能性が高いと判断した。

 また、傷口に膿などが生じる「化膿かのう(Suppuration)」は、当時は治癒過程で必ず発生するものだと考えられていたが、ジョンはそれを失敗しているからだと考えた。
しかし、結局彼は、そのことは証明できなかった。

 後にジョゼフ・リスター(1827~1912)が、 感染症や傷口の腐敗などに関して、ジョンと同じような着眼点から出発し、「消毒しょうどく(disinfection)」という方法を提案している。

トカゲのしっぽ

 戦場といっても、ずっと戦いが続いているわけではない。
休戦がしばらく続いた時などには、ジョン・ハンターの興味は人から自然へと向かった。

 彼は、トカゲが天敵から逃げるためにあえて自分の尻尾を切り落とす行為に強い関心を抱いた。
そしてトカゲのしっぽはまた生えてくる。
その再生能力は医学にも繋がるかもしれない興味だった。

 他にも彼は、1763年にロンドンに帰国するまでに、魚が音を聞くことができるかどうかの実験をしたり、様々な地形の観察から、ノアの洪水によって現在の地形が形成されたという通説に疑問を抱いたりするようにもなった。
プレート地図「プレートテクトニクス」大陸移動説と地質学者たちの冒険洪水神話「洪水神話」世界共通の起源はあるか。ノアの方舟はその後どうなったのか

歯科医との日々

 ロンドンに帰国してから、ジョンは、標本の権利を巡って、ウィリアムとすぐに喧嘩し、会いづらくもなった。
彼は有名な歯科医だったらしいジェームズ・スペンスという人のもとで働き始める。

移植実験と手術

 戦場で頭のネジをいくつか失ってしまったのか、ジョン・ハンターに関して有名な「奇行(eccentricity)」は、この頃あたりから 本格的となっていく。

 彼はトカゲの尻尾の再生能力への興味から、どういうわけだか生物の特定部位の移植実験にまで手を伸ばすようになった。
例えばロバの頭に、牛の角を移植したりしたらしい。

 真実はともかく、少なくともジョン自身は、移植実験のいくらかは成功したと考えていた。
そこで彼は当然、それを人間の医学に応用できないかと考えた。
つまり人間の特定部位の移植手術である。

 ジョンは、ドナーとして雇った貧しい者の歯を抜いて、それをすかさず歯のない別の患者に移植するという手術を何度も行った。

 しかし、かなり上手くいったように見えた場合でも、数年で結局移植した歯はダメになった。
上手くいったように見える場合があったから、この方法は結構広まったようだが、結局ろくなものでもないということがわかって廃れていった。

 ただ失敗したとはいえ、この方法は臓器移植などの手術の走りであった。
ひどい失敗ではあったが。

 また、ジョン・ハンターはこの頃の研究成果を基盤として、1770年代に歯に関する論文を発表しているが、それは歯科の歴史的にかなり評価が高いようだ。
彼は歯を分類してそれぞれに名前をつけたり、汚れの有害性に気付いて歯磨きを推奨したりもしているという。

検死依頼

 ジョン自身が評価の高い論文を発表して、その地位を引き上げるまで、イギリスでは歯科医というのは医者の中で最底辺だと考えられていた。

 だから、ジョン・ハンターを嫌う者たちは、歯科医の手伝いをする彼をバカにしたりもした。
しかしジョンは、解剖学者としての活動もすぐに再会した。

 特に彼の元には「検死(Autopsy)」、つまり死因を確かめるための解剖依頼がよく来るようになった。
社会において、宗教への信仰の弱まりと、健康への関心の高まりが重なり、家族が死ぬとその原因を確かめたいという遺族が増えたのである。

 ジョンとしても、 死亡原因を確かめることの重要さをしっかりと理解していた。
ある時彼は、病気で死んだ家族の検死を断った遺族に対して、「それならあんたらも同じ病気で死ぬだけだ。そうならないための方法を解明することを、あんたら自身が拒んだからだ」などと怒りを見せたという話もある。

文学を好む才女

 ジョンは軍時代の友人の一人の娘アン・ホーム(1742~1821)と1964年に知り合い、すぐに恋に落ちた。

 しかしジョンの方はともかく、彼女の方も14歳ほど歳上の彼に惹かれたのは奇妙とされることもある。

 アンは典型的な上流階級の娘であり、気品があるのはもちろん、文学を好む才女としても評判であった。
つまり本嫌いで、田舎者気質を隠そうともせず、わりと狂気的な実験や死体の話ばかりのジョン・ハンターとは、まったく正反対ともいえる人物であったのだ。

 とりあえず二人の出会いは、医者と患者としてだったらしい。

 またさっさと婚約した二人だが、結婚したのは1971年と、やや時間がかかっている。

大量の生きた動物、大量の標本

 すぐに結婚しなかった理由は安定した収入がなかったからかもしれないが、ジョンはもう結構稼いでいたはずである。
1765年6月に、彼はアールズコートという村の農地をある程度買って、大きな家の建設を始めさせている。

 家の場所として都会から離れた村を選んだのは、明らかに生物の研究により集中するためであろう。
そこでは大量の動物が飼われるとともに、大量の標本も保存されていった。

 兵法の中には群時代に集めたものやさやかちゃんは動物園からもらった非常に珍しいものも含まれていた。
サルや、ライオンの臓器に、海岸に打ち上げられたシャチの骨格標本まであった。

 解剖学者としてだけでなく、標本コレクター、あるいは動物学者としても有名になってきた彼のもとには、 珍しい動物を調べて欲しいと依頼もよくくるようになった。
彼の生物研究は評価もされ、1767年2月に彼は、王立協会の会員にも選ばれている

不死の研究

 生物が死ぬことには原因があるはずだから、その原因をどうにかできるなら、実質的に不死になることも可能なはず。

 1766年に、ジョンは教え子の一人でもあったジョージ・フォーダイス(1736〜1802)や、アーウィンという友人の化学者と一緒に、「爬虫類や魚は一度凍っても生き返る」という噂の真偽を確かめようとした。
熱部屋「ジョージ・フォーダイス」平熱の概念を命懸けで示した紳士  結局完全に凍らせてから生き返る生物は確認できなかった。

 ジョンは、生物は冷凍を利用することで、実質的な不死を得ることができると期待していたようだが、 結局彼は、すっかり凍らせたら生物は死ぬだけと結論し、その研究は終わった。

ばかげてること

 18世紀の外科医の患者といえば、例えばキスのような、ほぼ直接的な濃厚接触が原因となる感染症の患者ばかりだった。
淋病りんびょう(gonorrhea)」とか、「梅毒ばいどく(Syphilis)」とかである。

 ジョンも当然、相手にする患者の大半がそういう患者だった。

 ジョンはどのような病気であっても、患者の本名などは記録しなかったが、その病気に至るまでの経緯に関しては聞いたままを淡々と記録した。
本心がどうだったかはともかく、恥ずかしい原因の病気の患者がする苦しい言い訳も素直にそのまま彼は書いたが、数ヶ月、女性とは一切触れあっていないと語った男性に関しては、「いったい彼の病気はどこから来たのか」と疑問を呈したりもしているという。

 淋病に関しては、ジョンはたいていの場合は勝手に治ると考えていたようで、(この病気に有効と考えられていたらしい)水銀の薬を出す医者はインチキだと批判した。
彼は実際に、ただパンを小さく丸めたものを薬として患者に与えたが、それでも患者はすっかり回復したという。

 彼はこの手の、いわゆるプラシーボ効果の実験を度々行って、必要もない高価な薬を出す医者をバカにしたともされる。
当然その件に関しては批判する同業者が非常に多かったようである。

 ちなみにジョンは、淋病と梅毒の症状の違いや、効き目のある治療法が異なっていることまでしっかり理解していながら、 当時の通説どおりに、それらの原因の毒は同じ種類なのだと勘違いしていたらしい。
彼は誰か(おそらくは彼自身)を対象に、患者から採取したサンプルから自らを感染させ、その経過を確かめてもいる。
結果は彼の予想通りに、サンプルは淋病だけのはずが、被験者は梅毒にもなった。
しかし本当のところは、元々二つの病気両方に感染している患者のサンプルを用いてしまっていたからなのだと推測されている。
これもまたジョン・ハンターの失敗の例で、彼のこの研究のせいで誤解はますます広がったとされている。

 ジョンはまた、 そういうことが原因とされていた全然関係のないいくつかの症例に関して、「馬鹿げてるし、患者たちはひどく傷ついている」と述べたりもしているという。

次世代の教育

弟子の天然痘研究

 歯科医との仕事は5年で終わったという。
ちゃんとした病院での勤務経験のなさにも関わらず、すでにそれと関係のないところで名声を高めていたジョン・ハンターは、1768年の12月に、聖ジョージ病院の常勤外科医となった。

 1770年には、エドワード・ジェンナー(1749~1823)がジョンの家の最初の住み込みの弟子になった。
彼は後に「天然痘てんねんとう(smallpox)」の研究で非常に有名となる。

カリスマの斬新な講座

 聖ジョージ病院にやってくる若い実習生たちは、たいていがジョン・ハンターの門下に入りたがった。
ただ、ジョンにカリスマ性があっただけではない。
他の外科医たちは自分の仕事ばかりで、 次世代を育てようというやる気があまりなかった。

 ジョンは違った。
彼は病院というのは、ただ貧しい者たちを助け、金持ちから金を取る以外に、医者を育てる場所であるべきだと考えていた。
しかしその考えが同僚たちに受け入れられないことを知ると、彼は自分で無料の講座を開くことにする。

 それはあまりに画期的な医学講座であって、ジョンの敵はみな「 あれは医学なんかでなく生理学の講座だ」とバカにした。
実際にそうだった。
そして、その講座を受けた医者の卵たちは、がっかりしたりはせず、ただ衝撃を受けて、ジョン・ハンターという人の凄さを重い知らされ、偏見に満ちていた考えを捨てた。

 医学講座は実践的なものが基本であった。
しかしジョンはひたすらに理論を重視した。
外科手術のことどころか、最大の得意の分野である解剖学に関することすらもあまり語らなかった。

 彼はその講座で、人の体の生理機能を教えていた。
健康な時、病気の時のそれぞれで、人体はどのように機能しているのか。
病気がどういう状態であるのかを正確に知ること。
それが医者として最も必要なことだと、彼は強く信じていた。
伝統的な古い教えとか迷信とかよりも、確かに今目の前にある現実の現象を扱う大切さを説いた。

 もっと根本的な無生物と生物の違いという点にまで言及していたようだが、そのあたりの話になってくると、時代の先を行き過ぎていたろう。

 さらにジョンは、自分自身も学び、その学びとともに講座の内容は変わっていくとも説明した。
だから複数回講座を受ける者は、刻々と新たに明らかになっていく事実を知っていくことになる。
そして、それまで知っていたことと、新しく知ったこと、それらを比較したりして、自分でも考えてみることの大切さを彼は教えた。

 ある時、生徒の一人に、「去年言っていたことと矛盾しているじゃないか」と非難されたが、ジョンはまったく冷静にこう返したという。
「もちろんそうだろうとも。俺は年々賢くなってるからな」

 彼はしかしいくつになっても、人に何かを伝えるということに関しては兄を超えられなかった。
喋るのが苦手な彼は、講義を始める前に、精神安定剤を飲んでいたともされる。

癌だけは必ず切除

 実践的な外科手術の話を期待した生徒は彼の講義にがっかりしたろうが、いざ外科手術の話が始まった時はもっとがっかりしたとされる。
ほぼすべての症例の場合で、ジョンはなるべくなら切るという行為はしないようにと熱心に語ったから。

 ただジョンも、「がん(cancer)」に関してだけは必ず手術するようにと述べた。
彼は大量の解剖経験から、どこかにできた癌はほっておくと、必ず全身に広がると知っていたのである。
だからとにかく癌は切除しろと説いた。

 彼は、自分が失敗したケースに関してもしっかりと説明した。
医療に失敗して人を死なせてしまうことは現実としてある。
だからこそ、それを隠しはせず、失敗から学ぶべきだとも語った。

ヨーロッパで一番の解剖学者

 1776年1月。
ジョン・ハンターはついに、国王ジョージ3世(1738~1820)の特命外科医に任命される。

 説明が下手でも、 批判するものが多くても、彼がもはやヨーロッパでも有数の優れた医者であることは間違いなかった。

 またハンターはこの年に、記録に残っている中では史上初の「人工受精(Artificial insemination)」を成功させている。

救えない命

 はなから救えない命もあった。

 高名な哲学者であるデイヴィッド・ヒューム(1711~1776)には、一流とされていた医者の友人が大勢いたが、1775年に彼が原因不明の腹痛で苦しみ始めた時に、意味不明な理論を説明する以外のことができた者はいなかった。

 妻アンの父がヒュームのいとこだった関係から、彼を見舞うことになったジョンは、 その腹部を触っただけで、癌ができていると悟った。
腹を切ることは、もうそれだけが死につながるようなことだし、すでに病気の進行は進みすぎていた。

 ハンターは、立ち会っていた内科医のガストハートに「取り除けない死の異物ができてる。彼を助けることはもうできない」と伝えた。

 話を聞いたヒュームはむしろ「ヨーロッパで一番の解剖学者が教えてくれたこの事実は、一流とか呼ばれてるどんな偉そうな医者が適当に言った話よりも、私にとって納得できるものだ」と感謝すらしたという。

兄と巨人の死

 なんどか和解しかけたこともあったが、1780年には、ついにジョンとウィリアムの兄弟は完全に決別することになった。

 同じくらいの頃。
2メートルを軽く超えるほどの巨人として、ロンドンで話題になっていたチャールズ・バーン(1761~1783)という人がいた。
ジョンは彼に興味を抱いた上、重い病気にかかっていることも見抜き、彼の死後に死体を入手できるよう、人を雇って彼を見張らせていたという。

 バーンはしかし死後の解剖を嫌い、友人たちに、自分の死体は海でも葬り去るように頼んでいたが、結局は棺を運んでいる途中に、ジョンが雇った盗人に死体は盗まれてしまったらしい。

 兄ウィリアムの死は、バーンの少し前くらいだったとされる。

 そして、彼らが死んだ1783年に、ジョンはレスター・スクウェアの大きな屋敷を入手する。
標本が増えすぎて、物の置き場にも困っていたから、大きな家はありがたかった。
ハンターはさらに展示用の施設も建てて、自分のコレクションの博物館として公開した。

博物館と遺言

 標本はただ適当に展示されていたわけではなく、かなり計算され尽くしていたという。
彼はヒト系では、白人が最も優れ、次に黒人、サルとして、 それらの頭蓋骨を並べて述べたという。
「アダムとイヴは黒人だった」

 当然のことながら、ある人種がある人種よりも優れてるという考え方は古いが、それでもジョンの見方は当時としてはかなり新しかった。

 ジョン・ハンター自身は、1793年10月16日に、死んだ。
自分が死んだら、ちゃんと解剖して死因を確かめるように。
そして博物館は、国に買い取らせ公共のものとするようにと、遺言を残していた。

 彼の探究心はその死後にまで続いていたわけである。

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