「ウィリアム・トムソン」ケルヴィン卿と呼ばれる、最後の大古典物理学者

夕暮れ時のケンブリッジ

神童に始まり、貴族に終わった物理学者

生年月日。フーリエの「熱の解析的理論」の影響

 後にケルビン卿と呼ばれることになるウィリアム・トムソン(1824〜1907)は、1824年6月26日に、北アイルランド のベルファストで生まれた。
 彼は典型的な早熟の天才で、1834年、つまりまだ10歳の時に、グラスゴー大学に入学したという。
 また、1839年頃の事。
グラスゴー大学のニコル教授に勧められ、フーリエの「熱の解析的理論」を、大学の図書館から借りてきたトムソンは、たった2週間で、その内容を完全にマスターしてしまったと伝えられている。
そしてその翌年には、トムソンは熱の流れを数学的に考察した論文を発表した。
これはまだ16歳の時である。
そして生涯に、661編もの論文を書いたトムソンにとって、これは最初の論文となった。

トムソンとマクスウェル。熱力学と電磁気学。古典物理学の時代

 1841年。
グラスゴー大学を卒業したトムソンは、続いてケンブリッジの ピーターハウスカレッジで学び始めた。
そして1845年。
数学の学位試験で、第一級優等合格者の成績を収め、彼はケンブリッジも卒業した。
 さらに翌年。
1846年に、トムソンは22歳の若さで、グラスゴー大学の自然哲学の教授に就任した。

 トムソンと同時代人であるマクスウェルも、24歳でスコットランドのアバディーン大学教授となった、早熟の天才であった。
電気実験 「電気の発見の歴史」電磁気学を築いた人たち
奇しくも、熱力学と電磁気学という、古典物理学の時代のラストを彩る、2大学問の大学者ふたりの間には、密接な交流があったとされている。

ロンドン王立協会会長。そしてケルヴィン卿へ。その名の由来

 トムソンは1851年に、王立協会会員に選出された。
 1867年には、ナイトの称号を授けられ、サー・ウィリアム・トムソンとなっている。
 さらに1871年には、英国科学振興協会会長。
1873年には、エディンバラ王立教会会長にもなっている。

 それから、英国の科学者にとって、最も栄誉なことと考えられていた、ロンドン王立協会会長に、彼が就任したのは1890年のことだった。
 そして1892年に、彼はついに貴族の爵位(男爵)を授けられ、ウィリアムトムソン改め、ケルヴィン卿となったのだった。
このケルヴィンという名前は、グラスゴーを流れる川の名前からとったのだという。
生涯にわたってグラスゴーという地を愛したとされるトムソンらしい名前であった。
イングランド 「イギリス」グレートブリテン及び北アイルランド連合王国について

長距離ケーブルで、ナイトとなる

 ケルヴィン卿が、生前から多くの人に評価されていた理由として、彼が優れた科学者であったというだけでなく、優れたエンジニア(技術開発者)でもあった、ということが挙げられよう。
 例えば彼は、電気理論を用いて、長距離ケーブルを使った通信システムの実用化に成功している。
電気回路 「電気回路、電子回路、半導体の基礎知識」電子機器の脈
ケルヴィンがナイトの称号を授かったのは、この功績のためだとされている。

 彼はまた、特別に優れたコンパスを作り、それはイギリス海軍に採用された。
 
 ケルヴィン卿が、生涯で取得した発明の特許は69もあるという。

 新しい技術への関心も強かった。
彼の豪華な屋敷には、当時としては珍しい、電気による照明の設備がつけられていたという。

死ぬまで現役だった老兵

カルノーの研究との出会い

 1845年。
ケンブリッジを卒業したケルヴィンは、数ヶ月くらい、パリにて、ルニョーという科学者の元で学んだ。
この時期とされている。
 彼の代名詞とも言うべき熱力学研究の基礎となる、カルノーの研究を、彼が知ったのは。

 カルノーはフランスの物理学者で、ケルヴィンが生まれた1824年に 、「火の動力、およびこの力を発生させるのに適した機関の考察」という論文を発表している。
「カルノー」熱機関サイクルの研究。熱力学の最初の論文の行方
カルノーの研究は、生前には全く注目されなかったが、 彼の熱機関研究は、既に熱力学の第一法則、第二法則までも、ある程度明らかにしていたという。
熱力学 エントロピーとは何か。永久機関が不可能な理由。「熱力学三法則」
 カルノーの理論に影響を受けたケルヴィンは、1848年に、物質の特性によらない温度目盛、いわゆる絶対温度を提唱している。
絶対温度は、現在では、ケルヴィンのKで表すのが普通となっている。

最大の業績?熱力学第二法則。エントロピーの概念

 1851年。
ケルヴィンは「熱の動力学的理論について」という論文を発表した。
そこには、 熱の損失なく、力学的仕事を完全に実現することは不可能であることを指摘している。
これは明らかに熱力学第二法則の事。
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 エントロピー増大の法則とも言われる、この熱力学第二法則に関しては、1850年に、ドイツのクラウジウスも、全く同じ結論を導き出している。
また、1865年に、ケルヴィンの理論を発展させ、エントロピーの概念を提唱したのは、クラウジウスの方である。
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ダーウィンとの対立。地球にエネルギーはどれだけあるか

 進化論を提唱したチャールズ・ダーウィンは、ケルヴィンより10歳ほど年上である。
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 新しい物理学の時代が到来しようとしていた晩年にも、古典物理学の正しさを信じていたケルヴィン。
その彼が提唱していた、古典物理学的な世界観は、ダーウィンにとって、大きな壁であったという。

 ケルヴィンは、1863年に、「永続する地球の冷却について」という論文にて、地球の年齢は2000万年から1億年くらい。
かなり長く見積もっても4億年くらいであろうと推定している。
これは進化論理論が、現在の生命群を生みだすのに必要とする時間にしては、 あまりに短すぎた。

 ケルヴィンが地球の年齢を、あまりに若く見積もりすぎた理由は、 物質というものが秘めたエネルギーの量について、誰もが大きく誤解していたからだ。
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 熱力学法則を根拠としたケルヴィンの推定は、当時の知見的にはかなり的を射ている。
つまりどう計算しようとも、太陽系には、あまり長く、例えば何十億年以上とかいう時間、利用し続けれるようなエネルギー量などないと考えられていたのだ。
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 またケルビンは、星というものが、高熱の状態から始まり、ただひたすらに冷却していくものだというふうに考えていた。
しかしこれはそもそも前提から間違っている。
物質が崩壊し、熱(エネルギー)を発する、放射線という現象が発見された時、それは明らかとなった。

ラザフォードとの対立。地球の年齢論争

 アインシュタインが特殊相対性理論を発表した1905年。
その翌年である1904年に、 ラザフォードは、ロンドンの王立研究所で、放射線に関する講演を行った。
ラザフォードは、量子論の発展などに大きく貢献した、原子核や放射線研究の第一人者のひとりである。
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 講演の会場には、偉大なケルヴィン卿も座っていた。
そしてそこが一番の問題であった。
ラザフォードは、講演の最後の方で、放射線研究から明らかとなりつつあった、地球の真の年齢に関する新しい知見を述べようとしていた。
だがそれは、明らかにケルヴィン卿が推定する、地球の年齢よりもずっと長いものであった。

 公演が始まった時、ケルヴィン卿は居眠りしていた。
だが不幸なことに、いざ地球の年齢を話す段階になって、彼は見事に目覚めてしまう。
わりと追い詰められたラザフォードだったが、彼はここで見事な機転を利かせてみせた。

 「ここにはケルヴィン卿がおられます。彼は述べていました。何も新しい熱源が今後見つからない限りは、地球の年齢はおそらく、このくらいだろうと。これはまさに予言でありました。今まさに新しい熱源が見つかり、地球の年齢は更新されたのです。ケルヴィン卿は、我がラジウムの放射線を、見事に予測していたわけであります」

 ケルヴィン卿は微笑みを投げてきたと、ラザフォード自身が記録している。

 そしてケルヴィン卿が亡くなったのは、この出会いから3年後のことであった

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