自信に溢れたアマチュア学者
ジャン・ベルナール・レオン・フーコー(1819~1868)の振り子実験は、地球の自転を証明するのが目的であった。
彼の時代のヨーロッパでは、科学者と宗教家たちが、地球の自転という現象をめぐって揺れていた。
それが事実であるのかどうか。
はっきりと確かめる必要があったのだ。
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フーコーはアマチュア科学者だった。
ちゃんとした専門教育を受けたことはなく、自分で自分は数学が苦手だと考えていた。
しかし手先が器用で、実験に必要となる精密な振り子装置を作る技術を有していた。
自然界の法則を理解したいという情熱も十分だった。
何よりも彼は、専門家の批判など意にも介さない、大した自信家であった。
病弱だった少年時代
レオン・フーコーはパリで生まれた。
実家は裕福な中流階級。
父のジャン・レオン・フォルテュネ・フーコーは、出版業でそこそこ成功していた人だったが、息子フーコーが10歳の頃に亡くなっている。
父がいなくなってから、少年フーコーは、未亡人の母と共に、ヴォージラール通りとダサス通りの角に立つ家で住むことになった。
そして彼は大人になっても結婚はせず、その家で生涯を生きた。
フーコーは病弱な少年で、性格も内気で人付き合いが下手だったとされる。
片目が近視、もう片方が遠視だったために、物を見るときはいつも斜視、ようするに黒目の動きが両目で揃わず、変な奴と思われがちだったという。
そういうどうしようもなかった目の動きは、彼の大きなコンプレックスとなって、さらに人を遠ざけた。
そして、いつもひとりぼっちの彼は、本をよく読んで、独学で科学を学んでいったのだとされる。
出来の悪い怠け者
最終的に息子よりも長生きすることになる母は、期待をかけて、フーコーを一流の学校であるコレージュ・スタニスラスに入学させた。
身の丈に合わない学校で、彼は非常に苦労した。
家でも家庭教師に長い時間教わっていたにも関わらず、彼はいつも課題の提出に遅れがち。
教師たちの評価は、「弱気で意気地なしで、出来の悪い怠け者少年」というような感じだったようだ。
それでも母が雇ってくれた家庭教師が優秀であったおかげで、彼は大学にまで進学できた。
またフーコーは、コレージュ・スタニスラスで出会った、後に光の性質の研究で有名になるアルマン・イッポリート・ルイ・フィゾー(1819~1896)とは、よき友人になれたとされる。
電信機と蒸気機関
フーコーは勉強よりも物作りが好きな少年だった。
13歳の頃に突然、その趣味に目覚めた彼は、いろいろな玩具や機械を自力で作った。
彼は何でも、周囲にあるものを真似て作った。
近所の教会のそばに置かれていた「電信機(Telegraph)」まで、そっくりなものを完成させたという。
それがどの程度のものだったのか正確にはわからないが、一応短いメッセージを電波として発することができたという。
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当時は産業革命によって生まれた様々な新しい発明品が、多くの人の心をとらえた。
フーコーはそんな新技術の波に夢を見たひとりだった。
最終的にはしっかり起動する「蒸気機関(Steam engine)」まで作ったのだから、かなり筋金入りだったろう。
友人と恩師
息子の器用さという長所を理解した母は、彼が外科医になることを望むようになった。
そうして医学校で学びはじめたフーコー。
フーコーは特に、白血病の発見者であり、顕微鏡写真の発明者とされるアルフレッド・フランソワ・ドネ(1801~1878)が先生だった顕微鏡学の授業が楽しかったらしい。
ドネの方も、熱心な生徒のフーコーを特別視していた節がある。
しかし本人も教師もやる気たっぷりにも関わらず、フーコーは医者になれなかった。
必須であった病院勤務の際に、血を流しながら苦しむ患者を見て気分をかなり悪くしてしまったからである。
結局フーコーは医学校を退学となってしまった。
だが医学校は去ることになったものの、学生時代に名の知れたドネと結びつきを持てたことは幸運であった。
フーコーの才をかっていたドネは、彼を顕微鏡学講座の助手として雇ってくれたのである。
ダゲレオタイプ
フーコーは医学生だった頃に、写真家ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール(1787~1851)の写真講座に参加したとされている。
ダゲールは、史上初の実用的な写真技術として知られる、銀メッキの銅板などを感光材料として使った(ようするに銀メッキの化学反応で画を固定する)「ダゲレオタイプ(銀板写真)」の開発者である。
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そのダゲレオタイプの技術に夢中になったフーコーは、自分と同じく、医学校に入学したものの退学することになるフィゾーと一緒に、自分たちなりのダゲレオタイプの開発を独自に始めた。
フーコーたちは特に、30分程もかかっていた、ダゲレオタイプによる撮影のための時間をなんとか短くできないかを研究した。
臭素を加えることで原版の感度が上がり、原理的にはダゲレオタイプの撮影時間を短くできることを思いついたのはフィゾーの方だったようだ。
その後の、ヨウ素蒸気を染み込ませた板に、さらに水銀蒸気をあてる方法はフーコーのアイデアだったらしい。
二人はダゲレオタイプの撮影時間をかなり短縮することに成功したようで、その成果を共同研究の成果として公表したが、ダゲレオタイプはすぐに新しい方法に代わられたために、金儲けには繋がらなかったという。
アカデミーから嫌われていた素人
フーコーは、ダゲレオタイプ研究を、仕事となった顕微鏡学の技術開発に応用。
顕微鏡を通して捉えた映像をダゲレオタイプによって記録するため、当時の最新科学だった電磁気学の知見を存分に使い、彼は調節がしやすい電灯を開発した。
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この電灯は舞台照明の調節にも使えるかなり実用性の高いものであったが、先にイギリスで同じ装置が開発されていたから、やはり大した評価は得られなかった。
フランスの科学アカデミーは当時かなり閉鎖的で、科学に必須と考えられていた数学の教育を受けていないフーコーは、アマチュアとしてすら、なかなか認識されなかった。
フーコーはおとなしい人物であったとされるが、自信家の一面があって、多くの人に偉そうで嫌な奴とも思われていたのも問題であった。
さらに1845年にフーコーは、当時有力な新聞であった「ジュールナル・デ・デバ紙」の科学担当編集の職を、それを引退したドネから引き継いだ。
科学アカデミーの会議で重要視された発見を、一般大衆にわかりやすく伝えるという役割を、フーコーは真面目に果たしたが、自らは科学論文を発表したことがないにもかかわらず、冷静に客観的に功績を晒したこの若者を嫌う科学者は少なくなかった。
ようするにフーコーは、科学アカデミーの者たちから、無礼な素人と考えられていた。
レーマーの研究。カッシーニホール。パリ天文台の話
「ヴォージラール通り(Rue de Vaugirard)」は、4.3キロほどもあるらしい、パリで最も長い通りである。
フーコーの家からそのヴォージラール通りを東に行くと、パリ市民の憩いの場とされる「リュクサンブール公園(Jardin du Luxembourg)」に着く。
公園の南口からは「オブセルヴァトワール通り(Avenue de l’Observatoire。天文台通り)」に出れが、その通りに「パリ天文台(Observatoire de Paris)」はある。
この伝統的で、フランスの科学のメッカとも言うべき天文台では、多くの有名な科学者が、有名な発見を多くしてきた。
中でも特に知られたひとりが土星の衛星を発見したりしたジョヴァンニ・ドメニコ・カッシーニ(1625~1712)で、彼の功績を称え、天文台のメインホールは「カッシーニホール」とも呼ばれている。
オーレ・クリステンセン・レーマー(1644~1710)もまたパリ天文台にいた科学者のひとり。
木星の衛星イオの「食(Eclipse)」、つまり木星の影に衛星が隠れたりする現象の観察記録から、光の速度を、当時としてはかなりの精度で測定する。
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レーマーによる光速度の測定は、それが無限か有限かという議論に終止符を打つものであった。
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回転を利用した光速度の測定
レーマーの研究に、フーコーは大きな興味を抱いていた。
そしてそれは、「光の波動論(Wave theory of light)」の有力な支持者であり、政治家としても活躍したフランソワ・ジャン・ドミニク・アラゴー(1786~1853)も同様であった。
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アラゴーが自分でも光の速度について測定しようという気になった時、彼はすでに科学者としても政治家としても有名になりすぎていて、時間があまりなかった。
やがて年を取り、目も悪くなったアラゴーは、光の測定実験を行うために、若い助手を雇うことを考える。
フーコーはすぐに名乗りを上げた。
アラゴーはフーコーも、彼の友人であるフィゾーのことも知っていた。
アラゴーはダゲールと知り合いで、そのダゲールが開発したダゲレオタイプをさらに改良させたという若き二人の医学生に興味を抱き、面識を持ったのである。
フーコーとフィゾーはすでに、アラゴーの依頼で、顕微鏡のダゲレオタイプを応用した、望遠鏡のダゲレオタイプの写真技術を発明したこともあり、この仕事をアラゴーは高く評価していた。
そういうわけでアラゴーは、フーコーたちに、光速度の測定という課題を引き継がせた。
特にアラゴーは、空気中と水中、それぞれの場合で、光速度はどう変わるかということを知りたがっていたようだ。
アラゴーとフィゾーの方法、フーコーの方法
アラゴーは光を二分割し、それらを同じ距離、ただし空気中と水中それぞれに進ませ、高速回転する鏡に反射させることで、その反射角の違いから、それらの速度のみならず、その違いまでも測るという方法を提案していたとされる。
最初はただ、アラゴーの実験装置を精度よく再現しようとしたフーコーらだったが、フーコーが別のアイデアを思いついたために、二人の道は別れた。
フィゾーは先にひとりで、アラゴーの提案した実験を、歯車を使うなどややマイナーチェンジはしたものの、ちゃんと成功させ、当時としては最も正確な光速度の値を出すことに成功した。
現在かなり正確に知られているとされるその数値よりも、5%ほど大きかっただけとされる。
一方でフーコーはやはり回転する鏡と、 もう一つ固定された鏡を使った。
取り込んだ太陽光を回転する鏡に反射させて、それをさらに固定された鏡に反射させた。
すると片方の鏡が回転しているために、反射された光は元の地点に戻らず、わずかにそれるから、 そこで生じたズレから光の速度を計算できる。
結果を出すのはフィゾーより数年遅れてしまったが、フーコーはさらに高い精度で、光速度を算出した。
さらに使用する二つの鏡の間が、空気と水の場合のズレの違いを見ることで、それぞれの場合の速度の違いも測定しやすかった。
その結果は光の波動説が予想していた通り、「光は空気中よりも水中の方が遅くなる」というものだったという。
しかし、この優れた功績にもかかわらず、アカデミーはフーコーに博士号を与えず、正式な科学者として認めることをしなかった。
世紀の振り子実験
地動説を決定的に証明したとされる、世紀の実験。
フーコーの振り子の、その驚くべき証明が最初になされたのは1851年1月6日の午前2時。
フーコーの自宅の地下室であったとされる。
正確には最初の実験は1月3日に行われたらしいが、その時は振り子のワイヤーが切れたために中止となったらしい。
それを目撃したのが彼一人だったのかはわからない。
もしかすると母親か、親しい友人でもいたかもしれない。
ただとにかく間違いなく彼は見た。
振動が特定の方向に偏らず対称的で、その初期条件が完全に制御された、高精度な振り子。
彼がまさに証明しようとしていた地動説が正しいのなら、そのような振り子の振動幅はゆっくりと回転するはずであった。
その回転を、その日、彼は見たのである。
強力な味方
フーコーはもちろん、この実験が意味するところを知っていた。
だからこそ、それこそパリ天文台を貸し切りにでもして、多くの人にこの実験を公開する必要があった。
当時のヨーロッパはまだまだ、教会が大きな影響力を持っていた時代だった。
フーコーの振り子は、宗教と対立しつつあった科学の最終兵器であった。
地動説の証明は、 科学が正しく聖書が間違っていることの証明でもあったのだ。
問題があるとすれば、 この事件を計画した人物が、正規の科学者でなく、しかもアカデミーから嫌われているフーコーであるということだった。
だが、アカデミーの中には強い味方もいた。
光の測定で、自分を大きく評価してくれたアラゴーである。
地球が自転する瞬間を見に来られたし
まさしくフーコーの科学的な素質を誰より理解していたろうアラゴーは、すぐにカッシーニホールを提供してくれた。
フーコーは「パリ天文台にて、地球が自転する瞬間を見に来られたし」と書いた手紙を、自分が知っている限りの、パリの科学者たちに送った。
そして興味を抱きやってきた者たちは、1851年2月3日。
まさしく地球が自転しているのを見たのだった。
その後の話。その最期
一説によると、振り子実験の件で、 大いに恥をかかされることになったのは教会よりも、むしろフーコーを素人としてバカにしていたアカデミーだったという。
アカデミーの名だたる科学者の何人かは、フーコーの功績を消し去ろうとでもしているように、その振り子実験の結果を、より数学的にあつかった論文を次々と発表。
それらの論文の中では、意図的としか思えないほどに、フーコーの名は削られてしまっていたりしたそうである。
だが、アカデミーの科学者の執拗な攻撃も、フーコーの科学への愛は怯まず、徐々に世間にもその名は知られていった。
フーコーは1885年には、「渦電流(Eddy currents)」、つまり導体内の磁場の変化によって発生させれる電流のループ現象を発見する。
その同年、イギリスの王立協会は、科学的功績を称える「コプリ・メダル(Copley Medal)」を彼に授与。
さらにはフランス皇帝ナポレオン3世(1808~1873)は「レジオンドヌール勲章(L’ordre national de la légion d’honneur)」の「オフィシエ(Officier。将校)」をフーコーに与えた。
またフーコーは、パリ天文台でもアシスタントとしての職を得て、働けるようにもなった。
その後も彼は、光速度のさらに正確な測定や、高精度な望遠鏡の開発など、科学にいくつも足跡を残し、1864年には、ついに王立協会の外国人会員にまで任命される。
そして1868年2月11日。
神経の病気により、彼は帰らぬ人となった。
病弱だった少年の頃から、彼の才能を信じ、支え続けたとも言われる、彼以上に無名の母よりも早い死であったようだ。