アラビア科学の時代
ヨーロッパ中心の世界史においては、中世(5世紀~15世紀)は暗黒の時代と呼ばれるが、それは中世という時代が非常に迷信深かったせいである。
古代人にとって世界の原理とは神の意志だった。
この世界で起こるどんな現象も神の意志。
例えば木が燃えたり、水や風が流れたりするのは、火や水や風の神様が、そうしているからと説明すればよかった。
「化学反応の基礎」原子とは何か、分子量は何の量か 「流体とは何か」物理的に自由な状態。レイノルズ数とフルード数
しかし紀元前5~1世紀くらいにかけて繁栄したとされるギリシア人の哲学者たちは、世界で見られる様々な現象に関して、神の意志ではなく、何らかの定められた法則を見出そうとした。
そして科学は始まったのだとされるが、ヨーロッパではキリスト教の台頭(それにおそらくその腐敗に)よって、中世の間は、すっかりその哲学精神は大衆の心から失われてしまっていたのである。
「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束
メッカ(サウジアラビア)で生まれたムハンマドがイスラム教を開いたのはその中世の時代。
だいたい7世紀くらいだったとされる。
「イスラム教」アッラーの最後の教え、最後の約束
このイスラム教もまた、キリスト教と同じくユダヤ教から派生した宗教であるから、本質的には似てる部分が多い。
「ユダヤ教」旧約聖書とは何か?神とは何か?
だがイスラムが普及したアラビア世界では、 ギリシアから引き継がれていた科学が、中世の期間において生き続け、発展していくことになった。
案外、哲学精神の堕落を防げたのは、イスラムが階級制度を嫌ったからかもしれない。
また、共通語としてアラビア語がかなり広範囲に使われていたことも、中世のイスラム世界で科学が発展した理由だったとされる。
フィフリスト。目録書
都市バグダードで書店を営んでいたというイブン・ナディーム(Ibn al-Nadīm。932~990)は、 かなり知的好奇心溢れる人だったようで、988年に『フィフリスト(目録書)』という本を完成させている。
これは彼の時代のバグダードで、入手可能だった全書籍の概要をまとめたものであった。
なるべく客観的になるように意識していると思われる補足説明も多くあり、現代のアラビア科学研究者にとっても、貴重な資料となっているという。
アッパース朝のバグダード
最初期のイスラム王朝とされている「ウマイヤ朝(661~750)」の5代目カリフ(最高指導者)のアブド・アルマリク(Abd al-Malik b. Marwān b. al-Ḥakam。646~705)は、それまではいくつか異なった言語で書かれていた記録文章を全てアラビア語に翻訳し、以降に作成する文書もアラビア語で統一するようにと命じたという。
しかしウマイヤ朝の時代には、 アラビア語で学術文献が書かれることは基本的になかったようである。
また、中国から扱いやすい紙が伝わってきたのは、この時代とされる。
アラビア語はもともと遊牧民の言語だったが、コーランを記述するのに使われ たことをきっかけに、数世紀をかけて学術的な言葉となっていく。
そしてアルマリクよりも後。
「アッバース朝(750~1517)」 の時代となってから、さらにもうしばらく。
9世紀になると、アラビア語はすっかり学問の世界の共通語となっていた。
10~11世紀頃からは、アラビア文字で表記されるペルシア語もなかなかに重んじられるようになり、特に文学の世界ではよく使われるようになる。
知恵の館、バイト・アル・ヒクマ
アッパース朝の2代目カリフ、アル=マンスール(Abū Jaʻfar ʻAbd Allāh ibn Muḥammad al-Manṣūr。712~775)は首都バグダードを建設。
そこはさながら、ヘレニズム時代(紀元前3世紀~紀元0年くらい)のエジプトのアレクサンドリアのように、各地方から科学者たちが集う場にもなった。
762年に建設が開始されたというバグダードは、占星術の数字を基準として設計された円形の都市。
「占星術」ホロスコープは何を映しているか?
都市を囲む城壁の東西南北それぞれに門は、厳重な守備が敷かれていた。
都市中央の宮殿とモスク(イスラムの礼拝堂)は、宇宙の中心を象徴していたともされる。
イスラム以前の、サーサーン朝ペルシア帝国(226~651)にあったという、外国語文書を、翻訳して保管しておくための図書館を参考とした、『バイト・アル・ヒクマ(知恵の館。House of Wisdom)』も、バグダードに作られた。
ただ、中世の時代。
イスラム世界内部でも、多くの争いがあり、権力者は次々と変わっていった。
バグダードも常に科学の都市だったわけではないともされる。
ジャービル・ブン・ハイヤーン。伝説的の錬金術師
大名君として名高い5代目カリフ、ハールーン・アッ・ラシード(Hārūn al-Rashīd。763~809)に仕えていた錬金術師(化学者)のジャービル・ブン・ハイヤーン(Jābir ibn Ḥayyān。721~815)は、様々な科学分野に関する膨大な著作を残したとされている人物で、そのあまりの仕事の数に実在性を疑う声も多い。
「中世アラビアの魔術師たち」イスラム神秘主義、占星術と錬金術 「錬金術」化学の裏側の魔術。ヘルメス思想と賢者の石
多くの功績も記録されている。
例えば、化合物を一旦熱で蒸発させて、それから再び固め、沸点の異なる成分を分離する「蒸留(Distillation)」という作業を効率よく行うための『アランビック(Alembic)』という装置は、彼の発明とされる。
アランビックは、二つの容器をチューブでつなげた形で、長らく錬金術師の愛用のアイテムのひとつとなっていた。
また彼は、水に溶かすと塩基性という性質を示す「アルカリ」という物質の概念を発見したとされる。
カリフ、マアムーンの時代の科学者たち
知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)は、最初は宮廷の専用図書館として機能していたようだが、アッパース朝7代目カリフ、マアムーン(Abū al-ʿAbbās ʿAbd Allāh Al-Mā’mūn ibn Hārūn ar-Rashīd。786~833)は、その門を外部に対しても開いた。
マアムーン自身がかなりの知識人で、科学実験に自ら参加したりしていたようである。
天文台も併設されていたという知恵の館では、多くの学者が働いていたが、特に数学者と占星術師(天文学者)が多かったという。
多くの文献を翻訳し、あらゆる分野において名が知られ、イスラム哲学の父とまで呼ばれるアル=キンディー(al-Kindi。801~873)。
アルゴリズムの語源にもなり、インドの代数式とギリシアの幾何学を融合させたという伝説が語られる、大数学者アル=フワーリズミー(al-Khuwārizmī)。
「代数式は何のためか」変数と関数。二次方程式の解の公式
惑星や恒星の季節ごとの位置関係を示す円盤型の装置『アストロラーベ(Astrolabe)』を(イスラム世界で) 最初に作ったとされているファザーリ父子。
「太陽と太陽系の惑星」特徴。現象。地球との関わり。生命体の可能性
アストロラーベに関する著作や、地球の直径の算出を目的としたチームに参加していたという天文学者アルフラガヌス(Alfraganus)。
上記の他にもマアムーンの時代に活躍したとされる科学者の中には有名な人が多い。
専門家の職場
マアムーン以後のカリフも科学研究への出資には積極的で、カリフだけでなく、巷の有力者やエリートの中にも、科学者を抱える者が多くなっていった。
権力者は占星術師を特に重宝したが、雇われる側にとってはなかなか緊張感がある職場だったようだ。
専門家にも、そうでない者にとっても、星の動きが地上の物事に関連しているという仮説は通説であった。
だから権力者は自分自身の未来のことや、下の者に対する関わり方まで、お抱えの占星術師たちに相談したそうだが、気に入らない答えが返ってきた場合は、鞭打ちの刑罰を与えたりもしたという。
アル・ラーズィー。中世最高の医者
イスラム世界で初の病院も作られたのは、ハールーン・アッ・ラシードの時代とされる。
そして以降は医学の分野でもアラビアは大きく発展している。
多くの優れた医者がいたが、その中でもアル・ラーズィー(Abu Bakr al-Razi。865~925)は、中世で最高の医者と言われることもある。
錬金術、哲学の分野でも名を残している彼は、心理学や心理療法、感染症医学の基礎を築いた。
彼は、本職は医者で、バグダードとレイ、二つの都市の病院を行き来していたらしい。
麻疹や天然痘は 感染力が強くかつ致死率が高い上、後遺症も残りやすい危険な感染症である。
ラージィーは、同じ病気だと考えられていたそれらを、明確に区別して説明したとされる。
というより彼は、おそらく史上最初にそれらを、何らかの異常症状、つまり病気として考えた人とも言われる。
天然痘にかかると、全身に水ぶくれのようなものが生じるが、その前段階としてまず発熱が見られるという経過は、今ではよく知られているが、その初期症状を最初に記述したのもラージィーとされる。
当時は2世紀頃ローマのガレノスの「病気は体内の液体の不均衡から」という仮説の影響が強く、ラージィーもこの見解を基本的には支持していたようだが、 一方で彼の医学に関して疑問を投げかけるような内容の著作を書いてたらしい。
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さらにラージィーは、医者を名乗る詐欺師についての警告も書いていたようだ。
また、どれほど優れた医者であったとしても全ての病気を治すことは不可能だから、真面目に医者をするつもりなら常に勉強を続けなければならない、とも述べた。
彼は、進行した「癌」と「ハンセン病」は誰でも治せないだろう、と書いているという。
ラージィーは王族と貴族と若い女は医者の指示に従わない奴が多い、などと書いて、そういう患者を受け持つ医者に同情したりもしていたようだ。
カイロ学派。エジプト、ファーティマ朝
シーア派のイスマーイール派閥が興したファーティマ朝がエジプトを征服したのは、969年頃の頃とされる。
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そしてイスラムの影響を多大に受けたエジプトは、 科学分野に関しても大きく発展していく。
ハーキムの知識の館
ファーティマ朝六代目カリフのハーキム(al-Ḥākim bi-Amr Allāh。996~1021)はハーキムは、第5代カリフのアズィーズからその座を継いだ時、まだ幼かったために、バルジャワーンという後見人に、ワズィール(宰相)として好き勝手されてしまう。
しかしハーキムは16歳の時に、自らがバルジャワーンを殺し、本来の権力を握った。
ハーキムは徹底的なイスマーイール主義で、異教徒を弾圧したとされる。
また、酒や舞踊曲に関しても、かなり厳しく取り決めていたという。
それどころか、公衆浴場や様々なゲームなども禁止されたとされる。
彼には明らかに暴君的なところが見られた。
気に入らない召使いや官僚には容赦なく罰を与え、時には死刑にした。
また、過去にイスマーイール派と対立したカリフが好んでいたという食べ物を禁止にしたりもしたらしい。
何より伝説的なのは彼の最後である。
彼は王族としてはずいぶん小汚い格好で、従者も連れずに、 よく街中を徘徊したりしたようだが、1021年2月13日の夜、いつものように一人出かけた彼は、そのまま砂漠の闇に消えたのである。
数日後には剣で刺したような跡があるカリフの衣服が見つかったが、彼自身は結局行方知れずのままとなった。
そんなハーキムだが、実は学問に対する強い保護でも知られている。
彼は、首都カイロに「知識の館(ダール・アル・イルム)」という研究機関を設置。
ヘレニズム時代から伝えられてきたギリシアの学問と、バグダードから伝わってくるイスラムの最新研究が、贅沢に取り入れられて、『カイロ学派』として発展していく。
イブン・ユーヌス。球面上の三角
天文学者イブン・ユーヌス(Ibn Yunus。~1009)は、ある星が別の星の動きによって隠れる「食(eclipse)」や、 地球上から見て太陽や特定の惑星がほぼ同じ位置に見える「合(conjunction)」などの現象に関する研究をまとめた。
彼はそれを本としてハーキムに献上したという。
ユーヌスは、イスラム世界の最初期の作家とされるアル・シャフィイの仲間の曾孫らしい。
彼の数学に関する優れた才能は、時代の遥か先を行っていたともされる。
例えば三角関数に関して、かなり深くまで研究していたようだ。
「三角関数とは何か」円弧、動径、サイン、コサインの振動と波。
彼はどうも、球面上の三角に関するエキスパートだったらしい。
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また、仕えていたハーキムに負けず劣らず変な人だったという説がある。
イブン・アル=ハイサム。視覚に関する理論
イブン・アル=ハイサム(”Ibn al-Haytham。965~1040)は生まれはエジプトではなく、バグダードで科学の基礎を学んだとされる。
彼は数学と天文学、それに光学の研究で有名。
レンズや鏡を使った、光の反射や屈折に関する彼の実験的研究の手法は、後世に強い影響を残したとされる。
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彼は、視覚というものが、物体から反射した光が目に入るときに、目でなく脳で発生すると説明した最初の人ともされる。
これはかなり現在の考え方に近い。
視覚に関しては、当時有力とされていた理論は二つあったという。
エウクレイデスやプトレマイオス(83~168)が支持していたという、目から放出される光線が、物を照らし出した時にそれが認識されるとする「放出理論(Emission theory)」
なぜ数学を学ぶのか?「エウクレイデスと原論の謎」
それと、アリストテレスが支持したとされる、 物体から放たれる物理的な何かが 目に入った時に、それが識別されるという「吸収理論(intromission theory)」である。
ハイサムの説は、それら二つの説を合わせて考えたものとも言える。
彼は自信家でもあったのか、ナイル川の洪水問題を数学の力で解決できるだろうと声高に主張したため、ハーキムに、是非そうしてくれ、と頼まれる流れとなる。
しかし実際のナイル川を見て、自分の計画は妄想にすぎなかったと気づいてしまった彼は、 当然のことながら、ハーキムの怒りを買い、 財産を全て没収された上で軟禁されることになる。
ハーキムが死んだ後は、彼は解放され、没収されていた財産も返されたらしい。
また、彼は本当は死罪だったのだが、気の狂ったふりをして免れたという伝説もある。
イベリア半島のイスラム
イベリア半島(スペインとかポルトガルの辺り)で興った「後ウマイヤ朝(756~1031)」は、ウマイヤ朝の再興王朝である。
この後ウマイヤ朝が滅亡した11世紀。
南スペイン中心に支配していたイスラム勢力アル・アンダルスは複数の小国家に分裂し、政治は混乱したが、科学分野においては黄金時代が到来したとされる。
東方のイスラム世界から、スペインに書物が渡ってくるようになったのは、9世紀になってからで、後ウマイヤ朝で最初にカリフを名乗ったアブド・アッラフマーン3世(889~961)の治世からは、独自の科学研究も活発になっていったという。
アル・ザルカーリー。アストロラーベと水時計
トレドは、イベリア半島における様々な文化の中心地だったようで、科学研究も活発だった。
当然多くの科学者たちが活躍したが、その中でも代表的な存在としてよく語られるのがアル・ザルカーリー(1029~1087)である。
彼は最初はトレドで活躍したが、後にコルドバに移っている。
研究者としてだけではなく、優れた発明家としても知られていて、彼が作ったという(ヨーロッパではサフィーアと呼ばれていた)アストロラーベは、16世紀まで普通に使われていたという。
また、彼が設計した水時計(水の流れを利用した時計)はかなりの高精度だったようだ。
太陽と惑星の動きをかなり詳細に研究した記録が残っていて、後にコペルニクスの地動説研究に役立ったらしい。
しかし彼自身は、プトレマイオスの理論(天動説)を疑ってはいなかったとされる。
「地動説の証明」なぜコペルニクスか、天動説だったか。科学最大の勝利の歴史