「テンプル騎士団」隠し財宝の謎、十字軍国家の世界史、悪の王への呪い

騎士修道会の誕生

聖地エルサレム

 イエス・キリストその人が処刑され、そして復活したとされる街エルサレムは、古くから聖地として、ヨーロッパの人たちにも知られ、4世紀頃にはすでに、一般的な巡礼ルートの案内書が出回ったりもしていた。
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 『エルサレム』はユダヤ教にとっても、 古代ユダヤの国イスラエルの、礼拝の中心地『エルサレム神殿(Temple in Jerusalem)』、あるいは『ソロモンの神殿(Temple of Solomon)』の建設場所である聖地。
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 また、7世紀頃に興ったイスラム教にとっても、 最後にして最も偉大な預言者ムハンマドが、たった一晩で昇天し、訪れた地として、神聖視されている。
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 突如台頭したイスラムの勢力は、「ジハード(聖戦)」と称して、 キリスト教の影響下にあったパレスチナ、シリア、エジプトを次々と征服。
その時にエルサレムも、彼らの手に落ちた。

ファーティマ朝カリフ、ハーキムの暴挙

 しかし9世紀には、初代神聖ローマ皇帝ともされるフランク王カール大帝たいてい(742~814)の尽力もあり、キリスト教徒もエルサレムを巡礼することがまた認められるようになる。
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 ところが969年頃。
シーア派イスマーイール派閥が建てたエジプトのファーティマ朝(909~1171)が、エルサレムを手に入れてから、(キリスト教徒にとっては)状況はあまりよろしくない方向に動いていく。
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特に、さまざまな奇行や、徹底的な異教徒弾圧の方針で有名な、ファーティマ朝第六代カリフのハーキム(985~1021)の時代はひどかった。
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キリストの墓の場所に建てられたとされる「聖墳墓教会せいふんぼきょうかい(Church of the Holy Sepulchre)」は、さすがに聖地だからか、破壊をまぬがれていたのだが、ハーキムは遠慮しなかったという。

十字軍の結成

 ハーキムが死んだ後は、また少し状況が変わる。
1027年くらい。
東ローマ(ビザンチン帝国。395~1453)との交渉こうしょうの末に、七代目カリフのアリ・アザイール(1005~1036)は、教会再建の許可を出した。
そして1048年には、実際に小さな教会が再建された。

 本来はもっと大規模な再建工事も予定されていたそうだが、東ローマにセルジューク朝トルコ(1038~1308)が攻めてきたため、それは中断。

 イスラム教徒に対して負け続けの東ローマ帝国は、1074年。
ローマ教皇に救助を要請。
返事が返るまでには20年ほどかかったが、その間も巡礼者が襲われる事件は後を絶たなかった。

 そしてついには1095年の、教皇ウルバヌス2世(1042~1099)の聖地の「レコンキスタ(再征服)」の呼びかけに答える形で、『十字軍(crusade)』が結成される。
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ゴドフロワ・ド・ブイヨン。ボードゥアン。エルサレムの王

 十字軍ははなから無謀な計画とされていたが、どういうわけだか奇跡はいきなり起きる。
第1回十字軍は1099年7月に、エルサレムを奪い取ることに成功したのである。
そして十字軍指導者であったゴドフロワ・ド・ブイヨン(1060~1100)は、自らを王としたエルサレム王国を築こうとする。

 しかし王国の基盤がしっかりと整う前に、ブイヨンはさっさと死んでしまい、初代エルサレム王には、彼の兄のボードゥアン(1065~1118)がなった。
しかしエルサレム王国に留まろうという十字軍兵士は少なく、そこに行くまでの巡礼の道は、まったく安全になったとは言い難かった。

 ようするに、エルサレム王国をせっかく作ったのはいいが、そこに大した兵力は残ってなかった。

 ちなみに十字軍がイスラム教徒たちから奪った地域で作った国は、ひとつやふたつではなく、それらは十字軍国家と呼ばれる。
エルサレム王国はそのような十字軍国家の一つである。

キリストとソロモン神殿の貧しき騎士

 わりと謎の人物ユーグ・ド・パイヤン(1070~1136)が、仲間と共に「キリストの貧しき騎士(Poor Fellow-Soldiers of Christ)」を名乗る修道会を結成したのは1118年のこと。
当時は、ヨーロッパからエルサレムへの巡礼は、海路を使うのが普通だったが、貧しき騎士修道会は、船を降りてから聖地に着くまでの巡礼者の道の安全を守ることを使命とした。

 つまり彼らは、修道士であるとともに、聖地を守護する騎士でもあったわけである。

 言うなればこれは慈善団体だが、かなり実用的な役割があったために、すぐさま多くの人に評価されることになった

 二代目エルサレム王ボードゥアン二世(~1131)は、1119年。
当初、王宮として使われていた『神殿の丘(Temple Mount)』の『岩のドーム(Dome of the Rock)』をパイヤンらに明け渡す。
この時からこの修道会は、『キリストとソロモン神殿の貧しき騎士(Poor Fellow-Soldiers of Christ and of the Temple of Solomon)』、あるいは単に『テンプル騎士団(Knights Templar)』と呼ばれるようになったのだとされる。

神殿の丘の岩のドーム

 神殿の丘は、古代のソロモン神殿の廃墟跡はいきょあととされる場所。
岩のドームは、ウマイヤ朝(661~750)の六代目カリフ、アブドゥルマリク(646~705)が神殿の丘に建設したもの。
テンプル騎士団の本部として与えられた場所は、その岩のドームと、すぐ近くの『アルアクサモスク(Al-Aqsa Mosque)』の敷地だったとするのが通説である。

 イスラムの歴史的には、岩のドームは、ムハンマドが昇天した場所らしい。
そこは礼拝所(モスク)ではないようだが、よくアルアクサモスク(ウマイヤ朝の頃に建てられたモスク)と混合されがちとも言われる。
アルアクサとは「最果て」とか「遠くの」というような意味だという。

巡礼者の守護騎士団

 1127年の秋。
ユーグ・ド・パイヤンは5人の仲間を連れて、教皇ホノリウス2世(1060~1130)に会いに、ローマにやってくる。
教皇に、 修道会を公認してもらい、さらに独自の会則かいそく(規則)の制定の許可を得るためだった。

 その時までにテンプル騎士団が従っていた会則は、神学者であったアウグスティヌス(354~430)のものらしい。

クレルヴォーのベルナルドゥス

 特に第二回十字軍(1147)の勧誘でも大きな役割を担うことになったとされるクレルヴォーのベルナルドゥス(1090~1153)は、テンプル騎士団を強く支持した。

 ベルナルドゥスは、当時のキリスト教社会においては絶大な影響力を誇っていた人である。

 1129年1月。
シャンパーニュ伯領のトロワで、高位の聖職者の会議が開かれたが、それに参加したベルナルドゥスは、テンプル騎士団の承認を認めさせることに成功する。

ラテン語会則

 トロワ会議では、テンプル騎士団の最初の会則も決められたが、それはラテン語で書かれたために、『ラテン語会則(Latin Constitution)』と呼ばれる。
その後1131年に、少し変更が入った会則が今度はフランス語で書かれている。

 その会則において、 テンプル騎士団の組織構成は、いくつかの階層から成り立っていた。
これは当時の修道会としてはかなり基本的である。

大修道院長である総長

 まず大前提としてこの騎士団のトップは「総長(Grand Master)」で、これは通常の修道会の大修道院長に相当するという。

 総長は会則により、手に杖とむちを持つことを義務付けられていた。
どうも、杖は弱き者を守るため、鞭は義務を怠る者を罰するためということらしい。

 また、総長不在の時に、その代役を担う「副総長(Sub master)」もいたようだ。

 総長は、有事の際には、緊急招集された「顧問こもん会議(Advisory Council)」に補佐される。
そしてその決定に団員たちは絶対服従しなければならない。

 さらに戦場の兵舎において総長は、「ボーサン(白と黒)」なるはたを掲げた。
1147年以降。
騎士団の象徴たる赤の十字模様が描かれていたというこの旗は、仲間が集結するための目印にもなったようだ。

騎士、軍曹、牧師。三つの階級

 階級としては「高貴な騎士(Noble knights)」、「高貴でなき軍曹(Non-noble sergeants)」、「礼拝堂牧師(Chaplains)」の3つがあった。

 騎士(高貴な騎士)は貴族の中から選ばれる。
この騎士団内において、出世によって騎士になるという流れは一般的ではなく、たいていは、そもそも初めから騎士の人が入団したという。
彼らは共通して、その純粋にして純潔な誇りを示す白いマントを身にまとい、1人につき3、4頭の馬を飼っていた。

 これはよく誤解されていることらしいが、白いマントはテンプル騎士団の制服というより、テンプル騎士団の騎士階級の者の正装である。
赤い十字架の模様も有名であるが、こちらは騎士団全体の共通の紋章だったようだ。

 騎士の補佐役として「従士(Squire)」、あるいは「盾持ち(shield bearer)」がいたが、これは外部からの雇われで、正式な団員ではなかった。

 騎士の次の軍曹(高貴でなき軍曹)は、 貴族以外の家柄の騎士というような感じで、1人1頭の馬も与えられていたという。
またその服装は黒か茶色だった。

 そして牧師(礼拝堂牧師)は、1139年から、騎士団の精神的教義を司った聖職者たちとされる。

 しかし騎士も含め、兵となるのは巡礼者を守る時のみで、平時は誰も皆修道士であり、その戒律かいりつはかなり厳しかったようだ。

司令官、コマンドリー、インフラ事業

 騎士団は勢力を拡大し、他の地域に支部を作っていったが、その総本部は最初に本部が置かれた岩のドームとされた。
そこには総長の他に、「司令官(Commander)」が二人いた。

 司令官の一人は、エルサレムの街を管理しながら、本来の役目である巡礼者の護衛を担う。
もう一人は、エルサレム王国内の騎士団領の総監督である。

 騎士団はエルサレム王国の周辺(東側)だけでなく、ヨーロッパの方(西側)にも管区かんく(行政区画)を持つようになっていった。
基本的にそれらの管区の一つ一つは複数の「コマンドリー」で構成されていた。

 コマンドリーは、農場や要塞施設を備える騎士団領。
各コマンドリーには支部が置かれていて、統治する支部長もまた、司令官と呼ばれた。

 テンプル騎士団は貴族からの人気も高かったから、寄付金もよく集まり、どんどん裕福になっていった。
そして裕福になるのに合わせて、その規模はさらに増大した。

 13世紀末には、ヨーロッパのコマンドリーの数は9000にも達していたとされる。

 ヨーロッパのコマンドリーは農場地域が重要な役割を担っていた。
そこで生産された様々な物資は、船によってエルサレムに送られたとされる。

 また、ヨーロッパのコマンドリーの騎士団は、効率のよい生産のために、(結果的に)水道などのインフラ整備にかなり貢献したらしい。

オムネ・ダトゥム・オプティムム

 1139年にはローマ教皇インノケンティウス2世(~1143)が、「オムネ・ダトゥム・オプティムム(Omne datum optimum。あらゆる完璧な贈り物)」という「ペイパルブル(papal bull。教皇勅書ちょくしょ)」が出された。

 ペイパルブルとは、ローマ教皇が発表する特別な宣言。

 オムネ・ダトゥム・オプティムムは、テンプル騎士団が、内部に独自のルールを持つことを正式に承認するものであった。
これにより騎士団は専用の礼拝堂と墓地を持つことも許され、ある管区の騎士団員は、その地域の教会に通わないで、自分たちの礼拝堂で、自分たちの司祭に祈ってもらえた。
これは実質的に、ローマ教皇の直接的な権力を別にすれば、他の教会から干渉かんしょうされることがなくなったことを意味していた。

 また、イスラム教徒からの略奪の正当化に、略奪品の一部を懐に納める許可。
税の免除なども、その宣言に含まれていたとされる。

円形の礼拝堂、要塞の礼拝堂

 テンプル騎士団があちこちのコマンドリーに建設した独自の礼拝堂は基本的に円形で、それらはエルサレム神殿、あるいは墓を意識した設計とされている。
また基本的に、騎士団は味気なく質素な感じを好んだようである。

 質素な感じを好んだのはベルナルドゥスのシトー修道会の影響とも言われる。

 それと当然といえば当然のことだが、東側のコマンドリーは、 投石機を備えていたり、籠城戦ろうじょうせんのための補給路ほきゅうろがあったりと、要塞化されているのが普通であった。
また、他のヨーロッパ諸国に比べるとイスラムの脅威が大きかったイベリア半島のものも、わりと要塞的なものが多かったらしい。
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サラディン、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団

 イスラム世界の英雄、サラディン(1138~1193)に負け、エルサレムが十字軍国家ではなくなってしまったのは1187年。
騎士団は監視下に置いていたとされるトルトーザ(シリアのタルトゥース)の街に逃れたとされる。

 サラディンのようなカリスマの指揮の下、イスラム勢力が団結する一方で、キリスト勢力は内部争いの問題も抱えていた。
テンプル騎士団は、同じくキリスト教の騎士団である「聖ヨハネ騎士団(Knights of Malta)」や、「ドイツ騎士団(Teutonic Knights)」ともよく対立していたという。

 それにそもそも十字軍の計画も第二回は失敗続きで、東のキリスト勢力は、全体的に弱体化を余儀なくされていた。

ジェラルド・リドフォール

 エルサレムがサラディンの手に堕ちた時。
テンプル騎士団の総長はジェラルド・リドフォール(~1189)という人だった。
彼に関してはどういうわけだか、騎士団に入る以前(あるいは総長になる前)に、十字軍国家トリポリの伯爵に近づき、その家臣と結婚しようとしたが許されなかったという話が伝えられている。
どうも、その女家臣が父から相続することになっていたボトルン(レバノンのバトルーン)の土地が目当てだったらしい。

 リドフォールは1184年に総長として選ばれたようだが、不正な手段を使っていたという説もある。
そしてこの男は、妙に無謀な遠征などをして、自分の軍の敗北までの時を早めたともされる。

 サラディンは征服した場所のキリスト教徒たちに対し、身代金を要求し、払えないなら奴隷にした。
しかし抵抗や身代金などに関係なく、普通は指揮官は殺されるものであろう。
ところがリドフォールは殺されずに捕虜となり、解放すらされたという。
そこで彼が実はイスラム教に改宗したスパイであるという説は当時から囁かれていたようだ。

 リドフォールは女家臣の件で、トリポリ伯に対しかなり大きな憎しみを抱いていたようだから、動機としては十分であろう。
ただ、結局彼はすぐにまた捕まって、処刑されたとされる。

 そしてこのリドフォールの失敗により、それまでにもいくらかの敗北で薄れていた騎士団の権威は、一気に落ちることになった。

聖地を去る

 しかし東の領土が縮小しても、ヨーロッパからの援軍がやってくる限りは、イスラム勢力との戦いは続けられた。

 そして、エルサレム奪回のために組織された第三回十字軍(1189~1192)が、なんとかガリラヤ(イスラエル北部)のアッコンを奪回する。
それからテンプル騎士団は、結局取り戻せなかったエルサレムに代わり、そのアッコンを拠点とするようになる。

 そしてそのアッコンも、1291年にイスラム軍に陥落され、他のキリスト教徒たちとともに、(巡礼者の護衛という役割も失った)テンプル騎士団は聖地を去ることになった。

 というかほとんど殺されたらしい。

銀行事業で築いた莫大な富

 テンプル騎士団といえば、銀行業で莫大な富を築いたという話は有名である。

 もともとテンプル騎士団の目的は巡礼者の護衛。
そこで、巡礼者が道中に追い剥ぎに襲われたりするケースを考え、ヨーロッパ支部にあらかじめ財産を預け、聖地で現金と変えれる引換券を用意してもらうという一時預かりサービスから、本格的な銀行業が発展していったとされている。

 そうしてテンプル騎士団は預かっているものとはいえ、莫大な金を持つことになっていった。
13世紀には、十字軍関連のあらゆる財産が、すべてテンプル騎士団の金庫で管理されていたとまで言われることもある。

 そしてこういう事情もあり、聖地を失ったテンプル騎士団は、それでまだ莫大な富を隠し持っているという噂が後を絶たなかったとされる。

没落。欲深い王と聖職者たちの嫉妬

 聖地での役割が終わってからも、ヨーロッパにはまだ騎士団のコマンドリーが多くあった。
しかし生き残りの騎士たちが帰還した時、すでにその評判は地に落ちていたという。

 そうなっていた要因の大きなひとつとして、様々な騎士団の特権が他の修道会の嫉妬しっとを買っていたからという説がある。

悪名高き悪魔主義が設定された理由

 当時のフランスは財政難に苦しんでいた。
1307年に王であるフィリップ4世(1268~1314)がフランスのテンプル騎士団員を一斉逮捕した裏側の狙いは、その莫大な財産だったのはほぼ間違いない。

 当時の教皇クレメンス5世(1264~1314)もフランス寄りで、 騎士団を壊滅させるため異端審問いたんしんもんにかけることは容易だったとされる。
テンプル騎士団は、一般的に入会の儀式を秘密としていたから、そこに悪魔崇拝的な妄想を設定することも難しくはない。
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 捕まった団員たちは異端審問官から拷問を受けて、何人かはそれで死んだ。
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異端審問官たちも、多くはテンプル騎士団の特権階級に不満を抱いていた他の聖職者たちであるから遠慮もなかったと考えられる。

 テンプル騎士団の入会の儀式において、十字架に唾を吐きかけるとか、キリストを否定するとか、男同士でキスをしあうとかという、よくいわれる伝説は、この異端審問で得られた証言がもとらしい。

 またテンプル騎士団に関しては、男同士での恋愛を推奨していたかのような話は有名であるが、一方で女性の中絶の仕方などを熱心に教えていた噂もある。

 実際のところ、騎士団に関するそれらの奇妙な証言は、あまり信用できない。
本当の入会の儀式は、一般的な騎士のそれと大差なかったともされる。

財宝の行方

 フランス王はまた、他のキリスト教国にもテンプル騎士団の逮捕を進めたが、他の国では積極的に彼らが逮捕されることはなかったようだ。

 しかし、教皇は王の想定通りに動いた。
教皇庁のテンプル騎士の働きかけで、最初はその逮捕と財産没収を非難した教皇だが、異端審問で取られた証言を確認してからは、態度を変えざるをえなかった。

 教皇はテンプル騎士を教会裁判にかけることにして、フランス王に、彼らの身柄と財産の引き渡しを求めたが、身柄はともかく(それが目的なのだから当然だが)財産は渡さないというのが、フランス王の返事であった。

 教皇は、異端審問官の権力を剥奪し、この事件を自ら取り扱うことを宣言したが、狡猾こうかつなフランス王は、国民に、教皇が罪人をかばっているかのようなイメージを植え付けて攻撃させる。

 結局1312年に教皇は、テンプル騎士団の廃絶はいぜつを了承。
ただその財産は、フランス王でなく、聖ヨハネ騎士団のものになった。

最後の総長の呪い

 最後の総長ジャック・ド・モレー (1244~1314)をはじめとした4人の幹部は、1314年3月18日に、パリのノートルダム大聖堂前の広場で終身刑を言い渡された。

 しかし突如、ジャックと、それに幹部のジョフロワの二人は立ち上がり、「私たちは非難されるような罪など犯してはいない。たったひとつだけ犯してしまった罪は、命を惜しんで嘘の自白をしてしまったことだけだ」と自信を持って述べたとされる。

 たとえ拷問による自白であっても、一度認めたことを撤回することは神への再度の裏切りということで、とても重い罪とされていた。
そこで彼らはすぐさま火あぶりに処されることとなった。

 この衝撃的な二人の最後からわずか1ヶ月後。
クレメンス五世は死んで、それからさらに半年ほどでフィリップ四世も死んだ。

 そこでジャックは死ぬ前に、「半年以内にお前たちを神の法廷に呼び出してやる」と叫んだなどという伝説も生まれた。

 この辺りの話はどこまで本当かわからないが、クレメンスは以前から悩まされていた持病が急に悪化したための突然死。
そしてフィリップは、森の中で見かけた十字架を付けた鹿を追いかけているうちに体が麻痺して、数日後、「私は呪われてしまった」という言葉を残して死んだらしい。

秘密結社としての騎士団にまつわる伝説

謎の地下トンネルは聖杯を探すためか

 テンプル騎士団の本来の目的は巡礼者の護衛で、実際にその目的を彼らはよく果たしていたとされる。
ただし彼らはそれと同じくらい熱心に、あることを行っていたという噂がある。
それは神殿の地下の発掘作業である。

 19世紀末。
(フリーメイソンだったという説もある)イギリス軍人のチャールズ・ウォーレン(1840~1927)は、神殿の丘で、テンプル騎士団が掘ったのだと思われる放射状の地下トンネルもうを発見した。
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 そのトンネルがいったい何のために掘られたのかは、今となっては謎としか言いようがないが、ソロモン王の財宝、あるいはキリストの遺物(例えば彼が使っていたという聖杯)を探していたという説が人気である。

 騎士団が結成されてから10年ほどの間は、 彼らが誰かを保護したという記録も全然なく、むしろ彼らは地下を掘り進む仕事の方を優先していたのでないかと疑う向きもある。

 ただ地下を掘っていたという記録も、別にあるわけではない。
古い話だし、まして(おそらくは)偽の罪を着せられてしまったような人たちで、おまけにやや秘密主義的な所があったのだから、実際的な活動記録が少ないことも、そうおかしくもない。

 地下を掘っていた目的が何かはともかく、その黒幕がクレルヴォーのベルナルドゥス、あるいは彼が所属するシトー会だったという伝説もある。
実は1127年。
騎士団を承認してもらうために帰国してきたユーグ・ド・パイヤンらは、彼に「任務は達成された」と伝えたという噂があるのだ

かなり革新的だったとされる銀行システム

 シトー会と騎士団のはなからの繋がりを語る者はたいてい、(銀行業だけでは説明が難しいくらいの)それ以降の騎士団の莫大な儲けを指摘する。
実際に彼らが、その後10年ほどで、キリスト教世界において最も裕福な組織となったことはかなり確かである。

 彼らの銀行業のシステムが、いろいろ革新的だったのはほぼ間違いない。
例えば預金通帳の概念などはテンプル騎士団が始めたとされる。

 文化的にも優れていたのかもしれない。
例えばチェスは、彼らが西洋世界に紹介したという説がある。
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クリストファー・コロンブスは騎士団だったのか

 テンプル騎士団が実質的な壊滅に追い込まれたのは、フランスだけともされる。

 ただしこの騎士団の勢力自体は、フランスで最も強大だった。

 ポルトガルやスコットランドでは、ほとんど大した影響も受けず、騎士団の者たちは生き延びたとされる。
ただテンプル騎士団という名前は、ローマ教皇から禁止令が出ていたため、名乗ることはできなくなった。

 生き残りの騎士団員たちは、たいていが他の騎士団に入るか、新しく自分たちで、実質的に前と同じだが別の名前の騎士団を新たに始めたりしたという。

 そして意図せずアメリカ大陸を発見したとされるクリストファー・コロンブス(1451~1506)のサンタ・マリア号の帆に、例の赤い十字が描かれていたということで、 彼とポルトガルに逃れたテンプル騎士団の関係性の伝説も語られるようになる。

アメリカ合衆国とフリーメイソン

 そもそもフランスで潰された時、聖ヨハネ騎士団の物になったテンプル騎士団の財産だが、人々に噂されていたよりも小規模で、実はまだまだ大量の財産がどこかに隠されているという噂は、当初からあったらしい。

 そこで以下のようなシナリオが推測されることがある。

 テンプル騎士団は自分たちが稼いだ莫大な財産を地下にずっと隠していた。
しかしどこかの時点で(おそらくはエルサレムか、アッコンが落ちた時)、彼らはそれらの財産の大半を持ち出して、ひそかに船で逃れた。

 最初からそういう大陸があることを知っていたかどうかは諸説あるが、とにかく彼らの船はアメリカ大陸に渡り、そこでひそかに復活の時のための準備を始めた。

 これもどこまで意図していたものかは諸説あるのだが、ヨーロッパの方に戻ってきた騎士たちは、そこでは自分たちが目立たなくなるように調整した。
そして世間の人の記憶から薄れかけたくらいの段階で、ヨーロッパの船が仲間の逃れていたアメリカ大陸に向かうように仕向けた。

 つまり大航海時代というのは、ヨーロッパにアメリカ大陸を発見させるために彼らが仕組んだもの。
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 それから計画通りにアメリカ大陸は発見された。
そして現地にすでにいた仲間たちとともに、この広大な大陸に新しくやって来た騎士団員たちは、今度は世界の銀行になれるような独立した大国を目指し活動を始めた。
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 このシナリオを語る場合、実際にアメリカ独立に関わった可能性もあるフリーメイソンというコミュニティは、実はテンプル騎士団という説がセットになることが多い。
アメリカ独立 「アメリカの独立」宣言書、13の州、先住民、戦争により自由を
 そしてテンプル騎士団によって、大国、アメリカ合衆国は完成することになった。

 このテンプル騎士団、フリーメイソン、アメリカ合衆国を結びつける、なかなか興味深い話は、それほど大した根拠もなく、普通はよくある妄想的な陰謀論とされる。
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だがコロンブスがテンプル騎士団を何らかの形でリスペクトしていたとか、そのくらいは真実かもしれない。

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