「ダンテの神曲」キリスト教的ギリシア哲学。死後の世界を巡る物語

イタリア語文学史上の大古典

 イタリアの詩人ダンテ・アリギエーリ(Dante Alighieri。1265~1321)の代表作であり、後に多くの西洋世界文学に影響を与えた叙事詩。
ある時に、ウェルギリウス(Publius Vergilius Maro。紀元前70~紀元前19)という詩人亡霊と会って、地獄、煉獄と案内されたダンテが、さらにベアトリーチェという女性の案内で、天国も巡るという内容。

三位一体を表現した文章構成

 神曲は、キリスト教における『三位一体(Trinity)』の思想より、数字の「3」を基調とした文章構成になっている。
例えば、3つある各篇は、最初の篇の、序章的な第一を除けば、それぞれ33歌ずつ。全文にわたり「aba bcb cdc …… ded eかee(全詩の長さは自由)」という3行を一連として韻を踏んでくパターンである、テルツァ・リーマ(三行韻詩)という形式で書かれているなど。
神曲
 神曲は、そのテルツァ・リーマという技法が最初に使われた作品ともされ、技法というより、ただの拘りのような感じだったと思われる。

 ラテン語でなく、トスカーナ地域の方言で書かれ、後の現代的イタリア語の基礎にもなった古典とされていて、神学だけでなく、言語史的にも重要かと思われる。

 しかし以降は、内容のみに触れる。

現実世界に置かれた幻想世界

 描写的には、天国、煉獄、地獄、いずれの世界に関しても、この世界の延長線上にあるかのような物理世界を思わせる。
例えば地獄において、虫に刺されたりして苦しんでいたり、腕をヘビで縛られている人とかもいる。この場合、虫という生物をどういうふうに考えればよいのであろう。システムの中で、役割を与えられている、生きた(にも思える)部品だろうか。

 『地獄(hell)』は普通に地下。地球の内部にあり、そしてその中心には巨大な魔王ルシフェルがいる。
そしてそれを見た後、地獄へ帰るのかと思いきや、魔王が逆さまになっているのを見たダンテは、「あれはどうして逆さまに?」と聞き、ウェルギリウスは、「すでにあらゆる方向から引き寄せられる地点を通過して、きた方向と逆向きの半球側の方に来ているのだ」と説明する。

 入ったのと反対の半球側に出たところには、巨大な山、『煉獄(Purgatorium)』

 そして、『天国(heaven)』は、はやり天である。天動説においては馴染み深い、9つの天という、階層構造とされている。
「天動説の宇宙」アナクシマンドロスの宇宙構造。プトレマイオスの理論

神は誰を救うのか。キリストを知らなかった者たち

 開かれた地獄の門を前にして、星なき空に鳴り響く、激しい叫び声に関して、ダンテは聞く。
「 この苦しみに耐えている音の主は?」
ヴェルギリウスは答える。
「恥もなく、誉もなく、ただひたすら平凡に生きた者たちの情けない魂の惨めな姿だ。神に逆らわず、しかし忠実でもなかった。ただ傍観していた天使たちの卑劣な一族も、混じっている。天は自らの美しさを損なわないために、彼らを追放した。だが地獄も彼らを受け入れなかった、邪悪な輩と比べて彼らが自負していないからだ」
「天使」神の使いたちの種類、階級、役割。七大天使。四大天使。
 ウェルギリウスはさらに説明する。
彼ら死のうにも死ねない。それはまさに盲目の生。彼らの聞こえが残ることをこの世は許さぬ、慈悲も正義も彼らをさげすむ。彼らのことは口に話すこともなく、ただ見て過ぎるべき。

 宗教が薄い時代の人たちにとっては恐るべきことかもしれない。神に無関心なものは、罰は与えられず、しかしよき出来事にも恵まれない。この世界はそういう世界なのだと考えられるのだろうか。
無関心とはどういう程度のことを指しているのかは、かなり気になるところか。例えば生涯において、神様という概念に関してしっかり学ばなかった者とかは、どう扱われるのだろうか。
こういう点に関しては、地獄の第一階層にて、例えば「キリストの出生前に生まれて、その教を知らないことは仕方がないにしても、神を正しく礼拝しなかった。わたしもその1人だが、その欠落ゆえに、他の罪など何もない身ながら、わたしたちは救いにあずかれないのだ」という説明などもある。
ダンテもそういう話を聞いて、貴重な人たちが、リンボ(地獄の周辺、あるいは辺境)にて、わびしい未決定の日々を送っているのだ、と悲しんでいる。
十字架 「キリスト教」聖書に加えられた新たな福音、新たな約束
 さらにダンテは「功力(良い行いがための力)により、ここを出て神の祝福に預かった者も、今までにいたんじゃないですか?」と聞く。
ヴェルギリウスは、 自分がここに来て間もない頃に、勝利の栄光に輝く権能者がきて、人類の始祖アダムや、その子アベル、洪水伝説で有名なノアや、十戒で有名なモーゼなど、 旧約聖書でビッグネームとされている者たちをいくらか祝福世界へ連れ去ったと語る。
「旧約聖書」創造神とイスラエルの民の記録、伝説 ユダヤの寺院 「ユダヤ教」旧約聖書とは何か?神とは何か?
 キリストが西暦0年の生まれとすれば、ヴェルギリウスはその19年前に世を去った人なので、自分が来てから間もなくという表現は、スケール的にはおかしくもないように思える。ただ感覚として間もなくだったのだろうか、少なくとも人1人の生涯分ぐらいの時間はあったと思われるが。
キリストがくださったこと以上に、ノアやモーゼまでもが、 彼の登場まで祝福を受けていなかったというのは、旧約聖書の内容からすると、違和感を感じなくもない。
ただし、「是非とも知ってほしい。彼らより先に救われたいかなる人間の魂もないことを」とも言われている。つまり彼らは選ばれし最初になる人として、キリスト以前に選ばれたのかもしれない。

 歴史上の多くの偉人たちの中にも、別に祝福を受けれなかった者たちもいて、しかし生きていた頃に高い名声を持っていた者たちは、亡霊たちの領域でももてはやされているという。そのような者たちの中には、詩人や政治家の他に、タレスやエンペドクレスのような哲学者たちもいて「世界の存在を偶然に帰した者たち」とされている。

 天国篇では、キリスト以前という時期的な問題だけでなく、地理的な問題で、キリストの教えについて知らないという人たちに関してはどうか、というようなダンテの疑問もはっきり出される。
それの回答に関しては、特に曖昧な部分で、わかりにくいのだが、 結局正義というものはもともと人が抱えているものでもあり、しかし彼らは間違いを犯していて、ゆえに神の救いを受けれない、というような印象がある。キリスト教の教えを世界中に広めるのが使命だと考える、大航海時代の宣教師たちがわりといたとされるが、こういう思想が強かったならば、おかしくないのかもしれない

 また、天使と言えば、地獄の堕天使(悪魔)が、「わたしが論理に長けているのが、それほど驚きか」などと言う場面もある。ダンテは恐怖を感じるが、それはこの時に捕らえられたからなのか、この言葉にも原因があるのか。天使は悪魔となっても、その賢さを失わない、だから恐ろしいのかもしれない。
悪魔の炎 「悪魔学」邪悪な霊の考察と一覧。サタン、使い魔、ゲニウス

 地獄は、第2園(第2階層)からこそが真の地獄と思われる。第1階層は、喜びはないかもしれないが、苦しみもあまりないようである。
呪われた雨が永遠に冷たく降るという第3階層には、3つの喉を持つ怪物チェルベロ(ケルベロス)が出てくる。

 ケルベロスは犬の怪物とはされていない。悪鬼とも、醜怪巨大なウジ虫などとも表現される。
その怪物は水浸しの亡者たちに、牙をむきだしにした3つの口で犬のように吠える。目は赤く、髯は黒く、腹はふくれて、手には鉤爪。亡者たちをつかむと、皮を剥いで八つ裂きにするという。

 ケルベロスの他、ミノタウロスやケンタウロスといった、ギリシア神話の怪物は多く出てくる。怪物だけでもなく、他の要素、それにギリシアの偉人たちもよく登場するので、影響は大きそうである。
大地が浮かび上がる様子 「ギリシア神話の世界観」人々、海と大陸と天空、創造、ゼウスとタイタン
 怪物以外、特にギリシャ神話の神々に関しては、例えば星々(あるいはそれらで輝く夜空)を指して「天を荘厳する永遠のニュンペーたちの間で、三つの姿有する女神(月の女神アルテミス)の微笑むがごとく」というような比喩的な表現に使われている場合が多い。
キリスト教世界観であるが、複数のギリシア神々が存在している設定とか、そういうことではなく、神は伝説でなく実在している世界にて、やはりギリシアで語られた伝説の存在というように捉えられていたのかもしれない。
よくキリスト教において、異教の神々は悪魔扱いされたりもするとされるが、少なくとも、神曲にて表現されているギリシア神々は、悪魔という印象は薄い。

魔術師たちの末路

 スコットランド出身の学者で、巫術師だったとされるミケーレ・スコット(1175~1235)。占い師グイド・ボナッティ。占い師として有名になった靴屋のアスデンデ(マエストロ・ペンヴェヌート)。
地獄世界には、ダンテの時代ぐらいの頃に生きていたらしい魔術師たちもいて、自分たちの行いを悔いている。

 ただし悪魔と契約していたからとか、そういうこと(少なくともそればかり)ではない感じである。
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天界もあずかり知らぬ知恵。語られている哲学に関して

 単に神学的な話だけでなく、自由意思や、生命の原理についてなど、けっこう哲学的な感じの議論もあったりする。
基本的には、どの部分においてもギリシア哲学の影響を強く感じさせる。キリスト教的世界観に、そういう古い科学が、どのように取り込まれ、解釈されていたのか。そういうことが物語の中でしっかり描かれているので、貴重かもしれない。
「2つの鈍角(180°)がつの三角形に収まらぬ事実を観察すると同じく」というように、幾何学の知に関しても、時々触れられる。
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自由意思と、愛のための調整。世界は不平等か

 ヴェルギリウスは語る。
「現世は目が見えぬ、御辺(あなた)はまことに現世の人。現世に生きる御辺たちは、一切の原因をただ天だけに帰するなら。あたかも天が絶対必然の力持ちて、万物を意のままに操っているというのなら、自由意思など御辺たちの中にて滅びているだろう。善行には幸福、悪行には刑罰の報いありと立つるは正しい道理にならぬではないか。
天は志向を始動させるだけだ。それがすべてには亘らない。御辺たちには天から、一条の光と自由意思が与えられる。そして天との戦いに耐えきり、その後に栄養(善行?)さえ十分に取れるなら、完全に勝者となるだろう。
御辺たちは自らの発意により、大いなる力、優れたる性(さが)に随順し、それが原因となり、天のあずかり知らぬ知恵すらもその中に作り出すことができる。だからこそ現世で行く道を誤るというのは、御辺たちにこそ原因がある。御辺たちの中にこそ探さねばならぬのだ」
ここではさらに続いて、「愛の調整のために、時には指導や拘束、統治者や法律が必要になることもある。だがそれらを誰が正しく運用するか。現世を邪にしてしまったのは悪い指導だ」などとも語られる。
コネクトーム 「意識とは何か」科学と哲学、無意識と世界の狭間で
 これは万能の神様の様々な手違い、という聖書の描写の謎に切り込んでいるものにも思えるが、実際は単に、すべてを神様や天使、悪魔のせいにするような人たちへの批判なのかもしれない。
しかし、ただ、自由意思に共通性があると言うなら、志向が各自で異なっているというのは、わりと不公平と言えないだろうか。昔話の矛盾をどうにかしようとすると、新しい問題が生じてくるというのは、よくあることではあるが。
神の審判には、 例えば初期状態による 最終状態の違いを考慮するなど柔軟性があるだろうか。だがキリスト誕生以前の者たちが、どのような者たちであれ、ほぼ全員救われてなかったり、微妙そうである。だが、そういうことをしっかり判断するための「最後の」審判なのだろうか。
「新約聖書」神の子イエス・キリストの生涯。最後の審判の日の警告
 人が時に作り出すという、天もあずかり知らぬ知恵とは、哲学のことを意識していたのかもしれない。

生物、人間、高潔なる魂はいかにして発生するのか

 ダンテとヴェルギリウスが煉獄で出会った詩人スターツィオの、魂や生物発生などに関する話は、特に興味深い。
「渇いた脈管に吸収されることなく、卓上から手付かずに取り除けられる食物のように、後に残る完全な血(精液?)は、心臓にとどまり、あらゆる肢体に満ちる功力を獲得する。
その血はさらに純度を高め、口に出して言うよりは言わぬ方が奥ゆかしい場所(性器?)に下る。そしてそこから自然の容器(子宮?)の中なる、他の血に滴り落ちる。
2つの血はここに交わる。1つはもともと受動的で、もう1つは能動的である。それらは凝固し、一貫性を持ったそれ(経血)に命を吹き込む。その時点では、草木のそれに似たような魂だが、重要な違いがある。つまり植物はそこで万事完了であることだ。
しかし、そこではまだ発展途上の魂は、盛んに活動し、海綿のように動き感ずる段階を得る。さらに己を胚とする諸々の力が発動し、諸器官の開発にとりかかる。
子は広がり、膨らむ。だが動物の状態から物言う人間にどうしてなるかは、君にもまだわかっていないだろう。それは、君よりも賢い哲人さえもかつて間違った難問なのだ。彼は、魂と可能な知とはまったくの別物と説いたのだ。
真理を説こう。
第一始動者(神?)は、自然の巧みな技を喜び、そこに功力満ちる新しい霊を吹き込む。霊は胎児に存在する能動作用を、己の物体に吸収し、単一の魂となるのだ。それはまるで、太陽の熱が葡萄から流れ出る果汁と合体して、葡萄酒となるように。
そして、ラケージス(運命の女神)の糸(寿命の糸?)がなくなると、魂は肉体から離れる。そして人性も神性も潜在させて携え去る。こうなると他の機能は沈黙するものの、記憶、思考、意思の活動に関しては以前よりもはるかに鋭くなる。そして魂は2つの岸の1つに自ずと落ちて、初めて己が行くべき定めの道を知る。そしてその時、功力により、 魂はその姿を現すが、それは生前の肢体そのまま。
その辺りの空気は、そこに留まって魂の姿を受けて潜在させる。空気が水分を含むとそれに写る太陽光線の作用で、七彩の架け橋(虹?)を出現させるように。
新しい形からその外観を得たために、霊は影と呼ばれる。新しい形を拠り所に、霊は視覚に至るまでのあらゆる感覚の器官も作る。そうして我らは語り、笑い、涙を流せる。
そして、君もおそらく聞いたであろう。欲望、その他もろもろの情念が、我らを刺激するまま、影の形も変わってゆく。それが君が怪訝とする所以のものだろう」
卵 「胚発生とは何か」過程と調節、生物はどんなふうに形成されるのかの謎

地球という世界に関する描写

 煉獄山に関して、「水から、地から立ち上ぼり、あくまで太陽の熱へと引き寄せられる雲気が、この山の下方で引き起こす嵐が、人に危害を及ぼさぬように、この山は天に向かって高くそびえ、閉ざされている。ところより上では雲気の影響を一切受け付けません。
空気はその回転がどこかで遮られない限り、第九天の原動に従い、 音を描いて旋回するゆえ、純粋な大気の中に、何の束縛もなく卓立する高処」というような解説もある。

「それぞれの地味、それぞれの天候にふさわしい、様々な種を受胎し、千差万別の草木を産む」や「私のまわりに固くとじていた氷は、気体となり、水となり、私の口、私の目を通路として迸り出る」などの表現も、ダンテか考えていた世界観において重要そうである。

天体の運行。天使の序列

 いよいよ地球からも離れ、ヴェルギリウスからベアトリーチェに案内役を変える天国篇においては、天体の運行に関する物理原理の話まで出てくる。
「神羅万象にはこれを統べる秩序がある。そしてその形式を守ればこそ、宇宙は神の似姿とはなれ」
「火を月へひきあげる。これがやがて死ぬ身の情を動かす。これが土を引き寄せ1つに結ぶ」
「全てを取りしきる摂理は、最大の速度で旋回する天が、その中にあるあの天を、己の光で常に静まりかえらせる」

 ベアトリーチェが語る宇宙構造は、単にアリストテレス的天動世界でもなく、それは無味乾燥な法則ゆえというより、神秘的な神と天使たちの業であるかのようである。

「功力たる善、大なるにつれて、その働きである幸せもより大となる。そして体の各部みな等しく完全でさえあれば、宇宙の残り全てを、おのが意のままに動かすこの天球こそ、神を愛し神を知ること最も深き、かの輪(天使の序列?)にうってつけなれ。
輪として現れる実体の、外見でなく功力に、そなたの尺度で大きさ量れば、そなたの眼にもはっきり映るだろう。いずれの天界にあっても、それを主宰する天使の序列に従い、形の大は愛と知の多に、小は少に、いみじくも照応することが」

四大元素の地上世界。必然的な天国

 天の世界が、本質的に地上とは違う、特別な世界であることを思わせる記述は多い。
「水、火、風、地、ならびにこれらの結びあうものは、全て朽ち滅び、しばしの間しか持ちこたえない。 神によって作られたものならば、これらはなぜ不滅でないのか」という疑問に関して「清浄の国土(天国?)は、 完全無欠の姿で創られた。だが名指しされた諸元素と、その合成物は全て、これ造られた力により、さらに形成されたものだ。造られたのは、彼らの中に宿る質量(マテリア)、彼らの周りを旋回するこれら星々の中の形成力。あらゆる動物、植物の生気は、それになり得る合成物から、聖なる光の輝きと回転により引き出されたもの。そなたら(人間?)の生命は、至高の恵みが直下にこれを吹き入れ、愛の結びを固めたゆえに、それからは神へのこがれが止まないでいる」
そしてベアトリーチェは、「このことから、人がよみがえる道理も推し量れよう」とまで言う。
実験室 「原子の発見の歴史」見えないものを研究した人たち
 先祖霊による、「偶発の事は、四大組成の世界だけに限られた現象ながら、もとよりかの永遠の視えの中に、みなことごとく像を結ぶ」という表現もある。
明らかに天国は必然のみの世界とされているが、それはどういうレベルでのことなのだろうか。例えば天国に新しくやってくる者たちも、あらかじめ決まっていないと、完全に必然な世界とは言えないのではなかろうか。だがそうなると、天国だけが必然の世界とは、また言えなくなってしまうかもしれない。
それでも必然の世界とは個人個人の場合、またはその必然のシナリオも、いざそれが始まる以前には、常に変化していくのだろうか。

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