不思議なことは、我々が宇宙を理解できるということ
アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)は、「量子論(Quantum theory)」形成に大きく貢献した一人。
「量子論」波動で揺らぐ現実。プランクからシュレーディンガーへ
それに「特殊相対性理論(Special relativity)」、「一般相対性理論(general theory of relativity)」の提唱者でもある。
「特殊相対性理論と一般相対性理論」違いあう感覚で成り立つ宇宙
残された写真などには、ボサボサの髪や、どこかユーモアを感じさせるような彼の仕草も残っていて、大天才であり、ちょっとした変人だったみたいなイメージも強い。
実は俗っぽい面もあったようである。
無名の頃は名誉を求めていた。
普通に恋をして、悩んだ。
人はなぜ恋をするのか?「恋愛の心理学」
そして科学という宗教を盲信した。
「この宇宙で一番不思議なことは、この宇宙を我々が理解できるということだ」
そんなふうに彼は言ったことがあるらしい。
それが自惚れにすぎなかったのかどうかは、いまだに神のみぞ知ることだろう。
電気工学技士だった父、 貿易商の家で生まれた母
アインシュタインは1879年3月14日に生まれた。
彼は別に科学と縁がない家の子ではなかった。
彼の父ヘルマン・アインシュタイン(1847~1902)は、電気工学技師で、200人ほどの従業員を抱える企業家でもあった。
学生時代の得意分野は数学で、一時期は研究者の道を志したこともあったという。
また、母パウリーネ・コッホ(1858~1920)は、トウモロコシの貿易で一財産築いた家の娘だった。
少年時代、学生時代
自然への興味と、バイオリン
アインシュタインの言葉を喋り始めたのは、5歳の頃だったとされる。
普通に考えるなら遅い。
その頃に父から贈られた方位磁石が、自然に興味を抱いた最初のきっかけとなったとされる。
また、 バイオリンを習い始めたのもこの時期である。
バイオリンは彼の生涯の趣味となった。
彼自身が、「もしも科学者になってなくても、バイオリン弾きならいい」というふうに言ってたりもしたらしい。
興味のないものはどうでもよかった
興味のあることには非常に熱心なのに、興味のないことに関しては 、憎しみでも抱いているかのように自分から遠ざけようとする彼の性格は、生まれつき。
あるいは母方の祖父から受け継いだ性質だったらしい。
そして興味のないことをしっかり覚えさせようとする家庭教師の先生に対し、突然に感情を爆発させることも珍しくなかったという。
普通なら彼は問題児となるような性格だ。
実際にそうだったろうが、きっとそれ以上に彼には驚異的な直感と洞察の能力があった。
むしろ彼のその性格は、余計なことに気を取られずに、自分の学びたいことのみを学ぶことに役立ったと言われることもある。
「私は天才ではない。ただ人よりも長く一つのものと付き合ってきただけのことだ」
少なくとも彼自身はそう考えていたろうと思われる。
仲良かった妹
まず間違いなく彼は神童ではなかった。
幼い頃から強い興味を抱いていた数学、物理学、哲学などの分野では優秀な成績をおさめていたが、あくまでも優秀な成績というだけで、飛び抜けたというほどではなかったとされる。
もちろん彼自身が興味のない、例えば外国語のような分野では、彼の成績はひどいものだったという。
また、ヨーロッパで広がりつつあったユダヤ差別主義は、当時子供社会にまで広がっていたようだ。
ユダヤ系の一家の子であるアインシュタインも、いじめられたりした。
「オーストリアの歴史」ハプスブルク家、神聖ローマ帝国、ウィーンのユダヤ人
ただし、それほどにはひどいことはされなかった。
それでも、幼い小学生時代には、彼は自分が孤独だと感じてしまうことが多かった。
幼少期のアインシュタインの友人は、たった一人、妹のマリア(マーヤ)・アインシュタイン(1881~1951)だけだったと言われることもある。
ギムナジウムへの不満
アインシュタインは9歳の頃に、当時はまだ設立間もなかった名門中等学校である、ルイトポルト・ギムナジウムに入学した。
そこはギリシャ語やラテン語教育を重視する、やや古臭い校風で、アインシュタインにとってはあまり好ましい場所ではなかったとされる。
「彼はギムナジウムに相当な不満を抱いていた。どの教師たちの教え方も嫌でたまらず、教師たちの方も彼のことをよく思っていなかった」
妹のマーヤはそういうふうに後に語った。
生意気な問題児
1896年に会社経営が破綻したために、アインシュタインの両親は、新しいビジネスを求めてイタリアに移る。
アインシュタインは残って、学校をしっかり卒業するはずだったが、さっさと辞めて両親を追ってきた。
そして中学校(ギムナジウム)中退に構わずに、スイスのチューリッヒ工科大学(後のスイス工科大学(ETH))を受験。
アインシュタインは、総合点は合格基準に達しなかったものの、数学と物理学の成績が優秀であったため、物理学教授のハインリッヒ・フリードリッヒ・ヴェーバー(1843~1912)の目に止まる。
しかし、とりあえずは中等教育を終えるため、アーラウの学校で学ぶこととなる。
アーラウでは、無神論が幅を利かせていて、比較的自由な校風は、アインシュタインにはありがたかったとされる。
しかし、その校風が、生意気な彼の態度を増長したという見方もある。
ある時、地質学の教師が、地質調査の結果に関して、アインシュタインに尋ねた。
「ここの地層はどの向きになっていると思うかね? 下から上に向かっているか、上から下に向かっているか」
アインシュタインはこう答えたとされる。
「先生、そんなことは僕にとってはどうでもいいことですよ」
結局、アインシュタインは、フランス語以外は優秀な成績で、アーラウの学校を卒業したとされる。
そしてチューリッヒ大学へとそのまま進学した。
友人達との付き合い、異性との恋
アインシュタインはよく、複雑に乱雑していた物理現象の法則を、一つの体系としてまとめた人物として、アイザック・ニュートン(1642~1727)やジェームズ・クラーク・マクスウェル(1831~1879)と並び称される。
「ニュートン」世界システム、物理法則の数学的分析。神の秘密を知るための錬金術 「マクスウェル」電磁気学の方程式、土星の輪、色彩、口下手な大物理学者の人生
アインシュタインが自分より過去の二人に確実に勝っていたものがある。
それは社交性だ。
生意気な彼を嫌う人も多かったが、歯に衣着せぬ彼の物言いや、どこか計算されたユーモアは、人を惹き付ける魅力でもあった。
結局、少年時代の孤独は、彼には合わなかった生真面目な雰囲気溢れる環境だけの問題だったのかもしれない。
アインシュタインのチューリッヒ時代。
物理学教授のジャン・ペルネは、実験が下手くそだと生徒たちの間で不評だった。
アインシュタインは、ペルネが指示する実験に苦戦する同級生にしばしば、「あいつは頭がおかしいんだよ、君の実験ノートを貸してくれれば、あいつもご満足だろう素晴らしい結果をでっち上げてやるよ」と提案し、同級生が了承すると実際にそうした。
ペルネ教授が、アインシュタインのペテンに気づいていたかは定かでないが、とりあえず教授は彼に最低点の成績を与えたそうである。
またアインシュタインは、彼の所属していた物理学科のクラスの紅一点であったミレヴァ・マリッチ(1875~1948)と恋人にもなった。
アインシュタインにとってミレヴァは初恋ではない。
少なくとも彼はアーラウ時代の下宿先の娘マリー・ヴィンテラーと恋をしている。
ただ、アインシュタインがチューリッヒに行った際に、遠距離恋愛となったことで二人の関係は自然消滅したらしい。
しかしマリーとは、そもそも互いに好きではあったが、まだ恋人未満程度のあまり深くない関係だったという説もある。
恋に重力は関係ない
人付き合いに関しては、おそらく生涯、彼の悩みの種ではあった。
科学の発展への貢献という、自分の一番の希望のためには、孤独が必要なこともアインシュタインはしっかり理解していたとされる。
だけど、彼は誰かたちと掴む幸福もしっかりと求めていた節も強い。
「恋をするのは大変な喜びだし、必要不可欠なこと。だけどそれが人生の中心事になるのはよろしくない。そんなの、道を見失ってしまう」
「恋に落ちるのに、重量は関係ない」
「無限は二つ。宇宙と人間の愚かさ」
「私の学習を邪魔した唯一のものは、私が受けた教育です」
「人間性について絶望するのはよくない。私たちも人間だから」
「目先の欲望からなんとか逃れたい」
本当に純粋に、自分が自分で興味を抱いたものにだけ、自分の叡知を全て捧げることこそ、彼の願いだったのでなかろうか。
だがそんなことできるはずがなかった。
少なくとも彼にはできなかった。
彼自身が、彼がどこまでも普通の人間であることを、誰よりも理解していたのかもしれない。
頭がいいけど、人の話を聞かない
アインシュタインに最初に目を止めたとも言えようヴェーバーとは、最初は良い関係だった。
アインシュタインは、チューリッヒ工科大学に通っている間の、かなりの時間を彼の実験室で過ごしていたくらいだ。
しかし、おそらくはアインシュタインの独立志向のために、二人の関係はだんだんと悪くなっていった。
ある時ヴェーバーは、アインシュタインに告げたとされる。
「君は頭がいいけど、人の話を聞かないことが欠点だ」
普通になること、恋愛をすること、科学のために生きること
アインシュタインが初めて論文を書いたのは1900年。
彼はそれをルートヴィッヒ・エドゥアルト・ボルツマン(1844~1906)やフリードリヒ・ヴィルヘルム・オストヴァルト(1853~1932)に送ったとされるが、返事はなかったという。
そして同じ1900年に工科大学を卒業してからしばらくは、彼は就きたかった教授職とも縁がなく、辛い日々を送った。
「奇跡の年(annus mirabilis)」と言われる1995年まで。
その沈黙の時期に、アインシュタインの父は、事業に失敗し、この世からも去っている。
アインシュタインは、理想に生きること、現実に生きることの違いを嫌でも理解するしかなかった。
1902年には、ミレヴァが彼の子を産み、1903年には結婚もした。
アインシュタインは、友人のつてで、特許局に就職。
普通の生き方に身を投じていた。
男とか女とか、どうでもいいと言いきれなかった
アインシュタインはよき夫ではなかったとされる。
夫婦は子供を養子に出し、ミレヴァからすると、結婚生活に抱いていた理想はことごとく打ち砕かれる結果となった。
アインシュタイン自身、後にこの結婚は、望んでいたものではなく、単なる義務感によるものだったと白状している。
アインシュタインは決して浮世絵離れしていた人ではない。
彼はよく、男がどうたら女がどうたらというような俗っぽいことも語っていたとされる。
人間的な欲望に彼は決して、少なくとも完全には勝てなかった。
彼は女性と関係を一度持つと、もうそれで満足して、恋は覚めるということも何度かあった。
2度あった結婚生活も、実質的にはそうだったろうとされている。
ミレヴァ・マリッチ
アインシュタインは、恋愛と研究を はっきり完全に両立しようと考えていた節もある。
ミレヴァは物理学科の学生で、二人は学生時代よく一緒に勉強した。
アインシュタインが、特殊相対性理論に繋がる、光がどの観測者から見ても同じ速度だというパラドックスに関して考えるようになったのは、チューリッヒに入学する前からとされている。
最初の相対性理論は、10年の思考の後に発表されたものだったのである。
アインシュタインはミレヴァにいろいろなことを話した。
まだ世間に出してもいない、完成もしていない自分のその理論もその話の中に含まれていた。
そして彼女は、おそらく恋の強さゆえに、アインシュタインの理論を信じた最初の人になったともされている。
ただおそらく彼女には、アインシュタインと共同研究ができるほどの創造能力がなかった。
はっきり言うならアインシュタインは彼女の能力の程度にがっかりしていたとされる。
それでも彼女は、まだ全く無名のアインシュタインの、当時は突拍子もないと考えられていたはずの理論を強く信じて、論文発表まで彼を支え続けたはずだ。
しかし結局アインシュタインは、支えてくれる相手よりも、一緒に歩いてくれる相手を望んでいたのかもしれない。
二人の子の一人ハンス・アルベルト・アインシュタイン(1904~1973)は後に「あなたのお父さんの名声が高まっていた時、あなたのお母さんはどのように向き合っていたのでしょうか?」と尋ねられ、こう返した。
「彼女は彼を誇りに思いながら、だけど複雑だったと思います。 母も昔は科学者だったのです。ですが結婚してからの彼女は、その科学者としての自分を捨てているようでした」
奇跡の年の論文
特許局の仕事は楽で、時間的な余裕も多く、それが彼に非常に幸いした。
彼は仕事外の時間を使って、自分が関心があった様々な物理学の問題について考え、そしていくつか重要な答にたどり着いた。
光量子、ブラウン運動、相対性理論
1905年は2度目の奇跡の年である。
1度目は1665年。
ニュートンが、白い光は複数の色の光が混ざり合っているということを示した実験を行い、微積分の数学を開発し、万有引力の定理を発見した年。
「微積分とはどのような方法か?」瞬間を切り取る
一方で1905年は、アインシュタインが後に強い影響を残すことになった4つ(あるいは5つ)の論文が発表された年。
5つのうち最も最初に公開されたとされる論文は、アインシュタイン自身が、自分の最も革命的な仕事であったと後に述べる、物質に光を当てると電子が放出される「光電効果(photoelectric effect)」という現象に関するもの。
マックス・プランク(1858~1947)の量子仮説をヒントに、光は波でありながら粒子の性質を持つことを示した論文。
2つ目の論文は、分子の大きさについての論文。
3つ目は、液体中の分子が不規則に動く現象である「ブラウン運動(Brownian motion)」に関するもの。
アインシュタインは、ブラウン運動の原因が、熱運動する分子の不規則な衝突だとして、実験的に、目に見えない現象を測定する術を提供した。
どちらも、原子論の研究に強い関わりがあるもので、同じ論文のように扱われる場合もある。
「原子の発見の歴史」見えないものを研究した人たち
そして4つ目の論文は、あまりに有名な特集相対性理論に関するものである。
アインシュタインは、絶対的な時間や空間はなく、マクスウェルによって電磁波の一種だと明らかにされた光だけが、誰から見ても絶対的なものだという、新しい物理的世界観を用意した。
「電磁気学」最初の場の理論。電気と磁気の関係 「電気の発見の歴史」電磁気学を築いた人たち
5つ目の論文は短く、やはり4つ目として前のと一緒くたにされることがある。
これは、ただ相対性理論の計算式から、有名な「E = mc^2」を導出したもの。
そして彼は、世界で一番偉大な科学者となった
アインシュタインは1909年に特許局を辞めている。
この頃までに彼は、すでに物理学者として確固たる名声を手に入れていたようである。
彼はチューリッヒ大学の教授となった。
アインシュタインは1911年にはプラハへ移るが、そのチューリッヒで教授をやっていた2年間くらいから、彼はどういうわけだが、政府や戦争などといった政治問題に関心を持つようにもなった。
学生時代は、「理論物理学に関係ないことなんてどうでもいい」と言っていたような男が、ずいぶんな変わりようとも言えたろう。
また、プラハは彼にとって居心地のよい場所ではなかったらしく、結局一年とちょっとで、アインシュタインはまたチューリッヒへと戻ってくる。
それからさらに1年が経った頃に、彼は迷いつつもベルリン大学へと移った。
教師としての仕事をしなくてもいいという条件が、その時の彼には 魅力的であった。
彼はその時、重力の問題に取り組んでいて、それに集中したかったのだ。
それは重要で難しい問題だった。
そして彼は、たった一人でそれに取り組んでいた。
離婚と金
ミレヴァとの結婚生活はベルリンに行ってきた事をきっかけに完全に崩れたとされる彼女は二人の息子を連れてさっさとチューリッヒへと戻ってしまった。
それでも、その時はただ別居状態で、実際に離婚したのは1919年のことだった。
1919年というのは何かの意味があるだろうか。
その年は、アインシュタインにとっても、科学を知るこの地球上のすべての人にとっても、重要な年となっている。
ミレヴァは結婚によって幸せをつかめず、そして離婚によっても不幸から逃れられなかったらしい。
1921年にはアインシュタインからノーベル賞の賞金を送られたものの、生活はずっとそれほど豊かでなかった。
また、息子の一人エドゥアルドは、心に病を抱えていたようで、その最期の時は精神病院の病室にいた。
一般相対性理論
アインシュタインが一般相対性理論を発表したのは、最初の特殊相対性理論の論文を発表した奇跡の年からほぼ10年後。
1915年頃のことだった。
今では、曲がった時空間の重力理論などというふうに表現されるこの理論を、最初から理解できた者は、以前の理論の時より遥かに少なかったろうとされている。
すぐさまそれを理解できなかった者がいなかったわけでは絶対ない。
カール・シュヴァルツシルト(1873~1916)は、アインシュタイン本人も出せなかった、特定の条件下での、相対性理論の方程式の、近似ではない解を出している。
ブラックホールの存在を示唆したのも彼である。
「ブラックホール」時間と空間の限界。最も観測不可能な天体の謎
とにかく、理解できる者は少なくとも、この理論が正しいかもしれないということはすぐにみんなが理解した。
アインシュタインはこの一般相対性理論が正しいのなら、重力場が光の進む道を曲げる効果があることを示唆したからだ。
そして1919年。
アーサー・スタンレー・エディントン(1882~1944)により、太陽が光を曲げていることが観測され、アインシュタインは世界で一番有名な科学者となったのだった。
科学者の理想の妻
アインシュタインは1917年に重い病気にかかって、しばらく寝たきり暮らしを送ることになっている。
そして彼はその時によく世話してくれた、いとこで幼なじみのエルザ・アインシュタイン・レーベンタール(1876~1936)と、ミレヴァと離婚してから間もなくして再婚する。
その頃のアインシュタインにとっては、エルザはよき妻だったろう。
彼女は物理学以外のあらゆる面で夫をサポートし、アインシュタイン自身、研究ばかりに集中できるようにもなった。
もしかしたら科学者としての夫に嫉妬すらしていたかもしれないミレヴァと比べると、彼女はただ偉大な夫を誇りに思っているだけという感じだったとされる。
またエルザの方もアインシュタインとは再婚で、娘がいた。
実際のところアインシュタインは、その娘が目当てだったという説もあるが、これに関しては特に根拠もない。
少なくとも周囲から見ると、この夫婦の仲は普通によかったようである。
統一理論への取り組みは、没落の始まりだったか
1920年以降は、アインシュタインはますます政治への関わりを強めていく。
また、彼の偉大な創造の力は、この頃くらいからからだんだん落ちていったという人もいる。
エディントンの観測のおかげで世界的に有名になった彼は、戸惑いを感じつつも、その状況をかなり楽しんでもいたようだ。
もともと、その知的でユーモアが得意な人柄に牽かれる女性は多かったが、その傾向はますます強まったろう。
彼は少なくとも、1920年代のうちに妻以外の複数の女性と関係を持っている。
彼が創造力を失ったのは、そういう外交的な欲が高まりすぎたからだという人さえいる。
そしてその時期ぐらいに量子力学が発展したが、彼はそこで現れたいくつかの要素、この世界に存在する不確定らしい存在性を決して受け入れようとしなかった。
「物質構成の素粒子論」エネルギーと場、宇宙空間の簡単なイメージ
それからもう一つ。
彼はこの時期に、重力と電磁気の理論を統合した、たった一つの統一理論の開発に取り組むようになる。
「超ひも理論、超弦理論」11次元宇宙の謎。実証実験はなぜ難しいか。 「ループ量子重力理論とは何か」無に浮かぶ空間原子。量子化された時空
一般的には、 彼が残りの生涯全てを使ったこの取り組みは無駄に終わったとされる。
物理学の世界で生きること
アインシュタインは1955年4月18日に世を去る。
彼は晩年アメリカで暮らしていた。
最後に口走った言葉はドイツ語で、その場にいた者がドイツ語を理解できなかったために、最後に何を言ったのかは謎とされる。
病室には秘書を呼び、最後の最後まで統一理論を追い続けていた。
ベッドで寝たきりの彼は、時折体を起こしては、メモに何か複雑な数式を書いて、しかし特に意味もなかった。
有名になってからの彼には、世界中から連日のように手紙が送られてきた。
彼は時間的余裕がある時は、それらをすべて読んで、喜んで返事を書いた。
物理学の世界で生きるとはどういうことかを聞いてきた人は多かったようだ。
彼は、「それは孤立すること」などと答えていたらしい。
「客観的に評価するなら、一人の人間が努力によって手に得られる真理はごくわずかに過ぎません。だけどその努力により、自分という枷から自由になることができるし、偉大な人たちの仲間になることもできるのです」