恐竜を見つけた人
ギデオン・アルジャノン・マンテル(1790~1852)は、恐竜に関心ある人の間ではかなりよく知られている。
しかし、たいてい知られているのは、彼がイグアノドンの発見者である事。
奥さんが歯を見つけたという、もうほとんど伝説的なエピソードばかりである。
だが、詳しくは知られずとも、彼の名は永久に残るであろう。
恐竜を発見した男として。
「恐竜」中生代の大爬虫類の種類、定義の説明。陸上最強、最大の生物。
古生物への憧れ
初めての著書。妹ジェマイマのために
ギデオン・マンテルはイギリス生まれのイギリス人である。
しかし、1814年から、彼自身が記録を付けだしたノートによると、マンテル家は、フランス系らしい。
「イギリス」グレートブリテン及び北アイルランド連合王国について
彼は1790年2月3日。
イングランド、サセックス州の小さな街ルイースに生まれた。
この地でギデオンは、父トーマスと母サラ、それに兄弟姉妹達と暮らした。
父であるトーマス・マンテル(1750~1807)は、ルイースの靴職人で、サラ・オースティン(1755~1828)とは、1776年に結婚している。
家族の暮らしはあまり、裕福でなく、父は宗教的にも政治思想的にも、わりと過激な方で、その信条が、家族を苦しめる結果にもなった。
ギデオンはパブリックスクールに通えず、1796年から、私塾で教育を受けるようになる。
しかし1年の後に、一応はちゃんと学校に通うようになり、1802年まで通学していた。
彼は優秀な生徒で、1801年までには、初めての著書、『11歳のG・A・マンテルによるスケッチ集、妹ジェマイマのために』を完成させている。
これは地元の様々な遺跡を、8つの色彩で描き出した画集らしい。
化石とノアの洪水
ギデオンは1803年までに伯父のジョージと、ウェストベリーで暮らすようになる。
しかし二人はすぐに、ウィルトシャー州スウィンドンに移る。
ギデオンが、古生物に興味を持ち始めたのは、かなり幼少の頃と考えられており、化石収集に目覚めたのは12~13歳くらいの頃と、歴史家のマーク・アンソニー・ローワー(1813~1876)は書いている。
ある夏の夕方。
川の岸で友人と遊んでいたギデオンは、そこでなんらかの物体に目を止めた。
「それは何?」と問う友人に、ギデオンは「これは、多分化石とかいうのだと思う」と返した。
それはまさしく、アンモナイトの化石で、それを見つけた瞬間から、ギデオンは地質学者になったのだという。
スウィンドンで暮らしはじめてから、ギデオンは、化石により一層関心を持つようになっていった。
ある時、彼はジョージ伯父さんに、「なぜ化石は地に埋もれてるのか?」と聞いてみたらしい。
伯父はこう答えたという。
「聖書にも書かれているノアの大洪水によってだよ」
「ユダヤ教」旧約聖書とは何か?神とは何か?
ずっと後になってギデオンは語る事になる。
「ノアの方舟は、無知の安息所」と。
医学と骨について学ぶ
1805年2月。
15歳となったギデオンは、ルイースのジェームズ・ムーアの家で、5年間、奉仕しながら、医学を学ぶ事になった。
当時40歳くらいのムーアは、高名な解剖学者であるジョン・ハンター(1728~1793)のもとで医学を修めた外科医であり、師と共に、博物学などにも親しんでいた。
「ジョン・ハンター」生涯と功績、進化論を実験で見つけた標本コレクター
ギデオンはすぐに、薬の調合を覚え、また弟子となって1年目を迎える頃には、重態でない患者の診察も任されるようになっていた。
そしてその知識の増加と、技術の習得に合わせて、骨折などの症例も普通に任されるようになっていく。
そうして4年目を迎えるまでに、ギデオンは、立派な助手となった。
ギデオンはまた、休暇をもらえるようになると、また化石収集を行うようになる。
人体解剖に関しては、独学でより深く学ぶようにもなり、その独習記録は、1808~1809年に、『骨の解剖、および血液の循環』という自筆の文書として、後世に残る事になる。
前世界の生物化石
ムーアの弟子を卒業して、まだそんなに経ってない頃。
独学で学んだ事も合わせ、経験は無駄にはならず、マンテルは、王立協会の会員であったジョン・アバネシー(1764~1831)にすぐ気に入られた。
アバネシーはマンテルに、(真実は不明だが)半年間、解剖学の講義に通っていたという証書を発行してくれた。
マンテルはその証書を持って、試験を受けて合格。
正式に外科医となった。
また、博識なマンテルは、産科医としてもすぐ認められた。
そしてこの頃、マンテルは熱心な化石コレクターであったジェームズ・パーキンソンと出会い、パーキンソンは親切にも、そのコレクションを見せてくれた。
パーキンソンはフィールドとは無縁の、売買コレクターで、マンテルは彼から、化石の入手ルートなども学ぶ事が出来た。
また、パーキンソンが10年以上もかけて書き上げた、英国のあらゆる化石について記録した意欲作、『前世界の生物化石(Organic Remains of a Former World)』は、参考図書として、生涯、マンテルに影響を与え続けた。
本業研究者の夢
事業。最初の論文。結婚
正式に医師になると、マンテルはルイースに帰り、師であったムーアと共同事業を営み始めた。
一方でマンテルは、学会などで、個人的に研究者にも説得し、いつか大きな学術団体に参加できる事を夢見た。
1812年の3月と4月には、知人の編集者を通して、学術的な最初の文も書いた。
3月は、「ルイース近辺に見られる希少種化石について」。
4月は、「ルイース近辺の地層について」というタイトルだった。
そして希少種化石の方の冒頭では、「この我々が立つ地面こそ、前世界の生物の塚である事に気づく人はなんと少ない事か」と嘆いているという。
マンテルは、自分は、(当時は発掘学と呼ばれていた)古生物の学者として、恵まれた環境にない事はわかっていた。
彼には多大な財力もないし、未踏の地を冒険する機会もない。
しかしそれでも、自宅の庭ですら、この分野のフィールドになりえるのだと、彼は熱心に説いた。
それがどれほど楽しいか、どれほど素晴らしい学問なのかを広めようとしたのであった。
そしてそれら最初の論文は、よい足掛かりとなり、1813年12月に、マンテルはリンネ協会の会員に選出された。
また、後に妻となるメアリー・アン・ウッドハウス・ジュニアとの交際が始まったのも、この時期とされている。
ふたりが聖メリルボーン教会で式を挙げたのは、1816年5月4日の事であった。
サウス・ダウンズ化石誌
地質学者達は、古生物の化石は種ごとに、特定の地層でしか発見されない事に確信を持ち始めていた。
マンテルも。1815年2月1日に、グリーノウという地質学者との文通にて、5つの主要な地層について述べているという。
彼は、その5つの最も上部の地層を、白亜層としている。
医師としては、1818年頃に転機を迎える。
ムーアの健康が衰えてきた事で、この頃、彼とマンテルの共同事業が終幕を迎えたのである。
そしてこの頃までに、マンテルは最初の公式の著作、『サウス・ダウンズ化石誌(The Fossils of the South Downs)』を書くのに着手し始めている。
それは1822年に発表された。
この本は商業的には成功しなかったが、当時から、地質学者達からは称賛されたという。
ウィリアム・バックランド。チャールズ・ライエル
サウス・ダウンズ化石誌発行の前後くらいの時期。
マンテルは、自著の宣伝の一環として、オックスフォードの有名な地質学者であるウィリアム・バックランド(1784~1856)とも文通を始めている。
そして、この文通がきっかけとなり、マンテルは、バックランドの弟子のチャールズ・ライエル(1797~1875)とも知り合えた。
ライエルはよき研究仲間として、マンテルに強く影響を与えるようになっていく。
サウス・ダウンズ化石誌は、イギリスにおける地質学の古典的名著とされていて、内容は植物、貝類、魚類、亀類、そしておそらくは巨大な爬虫類のものと思われる、謎に満ちた脊椎や歯の化石を扱っている。
「魚類」進化合戦を勝ち抜いた脊椎動物の始祖様
しかし爬虫類化石については、特に大した言及もしておらず、恐竜の存在はまだ、闇に隠れていた。
イグアノドンの発見
ジョルジュ・キュヴィエ。メアリー・アニング
パーキンソンの著作を通じて、マンテルが学んだ事は多い。
そのひとつが、ジョルジュ・キュヴィエ(1769~1832)の、「哺乳類の時代以前に、爬虫類の時代があった」という説であった。
「哺乳類」分類や定義、それに簡単な考察の為の基礎知識
「爬虫類」両生類からの進化、鳥類への進化。真ん中の大生物
キュヴィエは、恐竜のみならず、メアリー・アニング(1799~1847)嬢の、イクチオサウルスやプレシオサウルスも認めそこなった人物である。
「メアリー・アニング」化石に生涯を捧げた女の子
しかし彼はそれでも優れた洞察力と知識から、絶滅した巨大爬虫類を示唆し、翼竜が空飛ぶ爬虫類だと、最初に気づきもした。
翼竜は、キュヴィエ以前はコウモリだろうと考えられていたのである。
「翼竜」種類、飛行能力、進化史。恐竜との違いはどのくらいか
「コウモリ」唯一空を飛んだ哺乳類。鳥も飛べない夜空を飛ぶ
ティルゲート層の化石。プレシオサウルスではない
サウス・ダウンズ化石誌を書き始めたくらいの時期から、マンテルはクックフィールド村近くの、ホイットマンズ・グリーンの採石場を化石発掘場のメインとするようになる。
ここには、化石に溢れた白亜層があり、マンテルはそれを、その地域の有名な森林の名前からとって、『ティルゲート層』と呼んだ。
マンテルは1820年頃には、ティルゲート層にて、巨大な爬虫類の化石を発見し始めたとされる。
1822年の、プレシオサウルスの発見は、マンテルにむしろ自信を抱かせた。
「首長竜」恐竜時代の海の覇者。種類、進化、化石の研究記録
自分の見つけた化石は、イクチオサウルスでも、プレシオサウルスでもなく、おそらくは陸上の生物。
「魚竜」恐竜より早く誕生し、絶滅した海生爬虫類。収斂進化の妙。
像なみに大きい
マンテルは当初、自らが発見した、巨大爬虫類をワニだと考えた。
彼は考察を重ね、このワニかオオトカゲらしき古代生物は、おそらくは像なみに大きいと、考えるようになっていった。
「象」草原のアフリカゾウ、森のアジアゾウ。最大級の動物
マンテルがティルゲートで見つけていた化石は、まさしく正真正銘の恐竜である、メガロサウルスであったとされる。
一方、どうやら巨大爬虫類は一種ではないらしく、マンテルはまた別のよくわからない歯らしき化石の研究も始めた。
夫人と共に収集したそれらの化石こそ、あるいはその中にこそ、イグアノドンのものがあったのである。
草食の爬虫類
1824年2月頃。
ウィリアム・バックランドはメガロサウルスに関する論文を発表し、マンテルに衝撃を与えた。
だがバックランドは、その生物を哺乳類だと考え、マンテルはしばらく後に、より状態のよい、ティルゲート層のメガロサウルス化石も見せて、それは爬虫類ではないかと説得したが、聞き入れられはしなかった。
マンテルはティルゲート層の歯の化石を、キュヴィエにも送ったが、キュヴィエは困惑しながら、それを魚類のものと断定した。
しかしその後もマンテルは、新たな歯を発見し続け、それらをいくつかまとめ、再度キュヴィエに送った。
そして1824年6月に、キュヴィエは、マンテルへの手紙に、「自分が間違っていた」と書いた。
それは草食動物のものと思われるが、爬虫類のものであろう。
マンテルは前からそう考えていた。
イグアナ?
「この生物に関して、新しい発見があれば、また教えてほしい」
というキュヴィエの依頼は、マンテルに絶大な自信を与えた。
それからマンテルは、その爬虫類がどのような爬虫類であったのか、考察をさらに重ね、ある時、ふと目についたのが、イグアナの骨格標本であった。
例の歯の化石と、イグアナの歯が似ていると気づいた時、マンテルはとれほど興奮し、喜んだ事であろうか。
彼は、自分が発見したのは、まさしく古代のイグアナであると確信。
それにイグアノサウルスと名を付けた。
しかしこの名前は、現生のイグアナにも使われる名称なので、すぐに撤回。
この生物は新たに、イグアノドンと名付けられたのである。
恐竜時代の確立
爬虫類から哺乳類へ
1825年に発表された、イグアノドンに関する論文は、マンテルを一躍時の人にした。
彼は念願だった王立協会の会員にもなれた。
1820年代が終わる頃には、マンテルは神を捨てつつあった。
少なくとも聖書に関して疑いをはっきり持つようになっていた。
彼は昔の地層は、大洪水などでなく、火山活動によって形成されてきたのではないかと考えるようになっていたのである。
さすがにかなり先見の明がある。
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「プレートテクトニクス」大陸移動説からの変化。地質学者たちの理解の方法
またマンテルは、化石というものの残りにくさをよく認め、実際には発見されてるよりも多くの巨大爬虫類が、かつては多くいたに違いないとも述べていたという。
哺乳類よりも前に爬虫類の、時代があったとするキュヴィエの説に、化石という証拠を並べる事で、強い説得力をもたらしたのである。
科学者達の悲しき戦い
1832年頃。
マンテルは新たに、メガロサウルスでも、イグアノドンでもない恐竜化石を発見し、ヒラエオサウルスと名付けている。
この恐竜の命名に際し、マンテルは複数の学者仲間から、名前を奪われないよう、発表と命名は必ず同時に行うようにと、忠告を受けている。
もうこうなってくると、科学上の発見の功績が誰にあるのか、どの情報を信じればよいのか。
全く、間違いなく愚かな話である。
そして1830年代の前半に、マンテルは家族を連れて、国際色の強いブライトンへと移住した。
彼はこの地に自らのコレクション博物館を構え、地質学の普及に努めようとする。
リチャード・オーウェン
1835年には、マンテルは体調を崩し勝ちで、もしかしたら鬱気味だったともされている。
同じく外科医でもある為に、よく比較されるリチャード・オーウェン(1804~1892)が、マンテルの人生に影響を及ぼし始めるのもこの時期であった。
そして1830年代後半。
知人の相次ぐ死。
それに大洪水を馬鹿馬鹿しいと考えた為に、襲いかかってくる宗教家達の攻撃が、マンテルをさらに苦しめた。
そして1839年に、長年の家政婦と共に、妻メアリーも、彼のもとを去ってしまう。
しかし1940年代になる頃には、マンテルは復活しつつあったとされる。
かつての情熱も、ある程度は取り戻しつつあった。
だが、彼が一線を退いていた間に、イクチオサウルスに関する優れた論文により、名声を新たに得ていた人物がいた。
それがオーウェンであった。
恐竜という名前
1842年。
オーウェンは、メガロサウルス、イグアノドン、ヒラエオサウルスを含む、古代爬虫類の新たな分類として『Dinosauriaо(恐ろしいトカゲ)』という名称を考案。
その英語名である『ダイナソー(Dinosaur。恐竜)』という造語も、彼が考えたものである。
また彼はおそらく、恐竜の化石と、鳥類の骨の類似点を指摘した最初期の人物でもある(にも関わらず、彼は生涯に渡って進化論を否定していたらしい)
「鳥類」絶滅しなかった恐竜の進化、大空への適応
「ダーウィン進化論」自然淘汰と生物多様性の謎。創造論との矛盾はあるか
悪意
しかしオーウェンには、人の功績をあたかも自分のものであるかのように語る悪癖があったという。
驚くべきは彼が、イグアノドンの研究の功績は、自分とキュヴィエにあると主張した事であろう。
キュヴィエすら怪しい。
(どのみちオーウェンはあまり関係ないけど)メガロサウルスならともかく、イグアノドンの発見こそ、まさしくマンテルその人の大功績である。
オーウェンは、イグアノドンを奪おうとしただけではない。
この悪名高き男は、1840年代以降の、マンテルの新たな発見や論文すら、自信の名声を利用して、揉み潰すか、奪おうと画策していたのだという。
そして医者でもあった
恐竜の名前をつけたのはオーウェンである。
彼はまた、自分こそが恐竜の発見者であると、人々に信じさせようとした。
しかし確かな事実は、ギデオン・マンテル(と多分奥さん)がイグアノドンを見つけ、キュヴィエもバックランドも、彼以前の誰も気づけなかった、その生物を古代の爬虫類と断定した事。
それに、偉大なる爬虫類の時代を説得力をもって、始めて説明した事。
1840年代に彼が書いたイグアノドンのイメージは、前足により、ずっとがっしりした後肢。
二足歩行の可能性。
おそらくはオーウェンよりずっと先に彼はいた。
また、彼はずっと、偉大な地質学者であり、古生物に魅せられた者であり、そして医者だった。
1852年10月10日。
生き絶えた彼は、自分が死んだら解剖し、医学的に役立てるような部位でもあれば、医学校に寄贈してほしいという遺言を残していたという。