「絵スゴロクの歴史」浄土双六、鵞鳥ゲーム、ヘビと梯子。起源を求めて

双六といえば絵双六

 基本的に6世紀くらいまでは、双六すごろくといえば、基本的に『盤双六』、つまり今でいう「バックギャモン」のことであったとされる。
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だいたいその時期は、日本にこのゲームが入ってきたくらいのことともされている。

 日本での双六という名称の語源に関してはかなり説があるという。
例えば朝鮮でのサングリョックという名称がなまったとか、ゲームをしているとサイコロの6のゾロ目が出た時に状況が有利になるからとか、その辺りが代表的な説である。
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 ところで今は逆に、双六といえば絵双六のことだろう。
各プレイヤーがサイコロを振って、出た目だけコマを進めて、一番最初にあがりに達した者が勝ちというものである。

 実際にこのようなゲームがいつ誕生したのかについては諸説あるが、少なくとも民間に広まったのは、盤双六が衰退し始めた17世紀以降のこととされる。

浄土双六とは何か

 ゲームの起源の歴史において、宗教との関係はよく言われる。
例えばエジプトの地で誕生したとされる盤双六は、おそらく死者が神々の家を訪ねながら、最終的に生まれ変わりか、あるいは不死なる永遠の世界へ旅立つまでの小旅行を描いたようなものだった。
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 基本的には、絵双六の始まりとされているのは、17世紀中頃より遊ばれるようになった『浄土双六じょうどすごろく』である。

仏の道に始まり、神道や百鬼夜行も取り入れられたりした

 浄土というのは、けがれとか、煩悩ぼんのうとかがまったくない素晴らしい理想世界、言うなればキリスト教における天国を指す仏教用語である。
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 この浄土双六は、「南閻浮州なんえんぶだい(人間界)」を振り出しとして、仏への至り、悟りを得ること、つまりは「法身ほっしん」をあがりとする双六である。

 世界観は完全に仏教思想に基づいている。
例えば、衆生しゅじょう、つまり生きとし生けるものが、生前の業に応じて転生する6つの世界「六道りくどう」や、さまざまな仏がマスとして連なる。
また、サイコロの目は数字でなく、『南無分身諸仏なむぶんしんしょぶつ』となっているという。

 庶民の間に広まってからは、神道やその他の民間信仰、化物妖怪の百鬼夜業などが取り入れられたりもしたそうである。
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壁画の仏塔

 インドやチベット、それにビルマ(ミャンマー)などは、チェスや将棋の起源である「チャトランガ」が開発された地域ともされる。
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そしてこれらの地域の仏教寺院に彫られているという13世紀くらいにいくつかの「仏塔ぶっとう」を描いた壁画は、浄土双六の原点ではないかという見方もある。

 仏塔とは、仏舎利ぶっしゃり、つまりは釈迦しゃかの遺骨や生前の所持品などを安置した特別な塔のこと。
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永沈。ゲームからの失格という厳しい罰

 基本的に壁画の仏塔は八段階に分けられ、 その最下層は「地獄」、あるいは「無間むかん地獄」となっている。

 無間は、分類されたいくつかの地獄(八大地獄)の中でも、極悪人が落とされる最上級の地獄とされる。
 
 この一番下の地獄、あるいは無間(または空とも)は、 浄土双六においては『永沈ようちん』のマスとなった。
永沈は、永遠の消滅、つまり双六においてはゲームからの失格を意味する。

 後に娯楽となった双六においては、永沈に相当するようなマスは普通存在しない。
通常遊びの双六において、最も厳しいマスは振り出しに戻るとされているから失格ではない。
このような厳しいマスがあるのは、仏の修行は決して簡単ではないということをよく表している。
つまり一度でも仏の道を外れてしまった馬鹿者は、もう二度とその道を歩むこと叶わぬということである。

 永沈マスはなかなか強烈な特徴とされているのか、浄土双六の呼び名として、「永沈双六」というのもあるという。

誰が何のために作ったものなのかの謎

 民間に知られるようになるよりも結構古くから、この浄土双六の原型自体はすでにあったようだが、当初どのような目的でこのようなゲームが生み出されたのかについては、よくわかっていない。

 ただ、仏教徒の寺院において、教育用に発案されたという説が基本的には有力とされている。
原型のさらにそのルーツといえよう壁画などには、様々な絵による表現があるにも関わらず、初期の浄土双六は文字ばかりの味気ないものだったとされていることも、この説に説得力を持たせている。
教育用のものだから、絵が入っているというのは俗物的過ぎると判断された、と考えられるからだ。

 他に壇家だんかに配布するためのものだったという説もけっこう人気。
壇家というのは、ある寺にとって、仏教に関わる様々な行事を行う代わりに、お布施をしてもらう関係にあるような家のこと。

 特に研究者の間でよく議論されるのが、その双六が作られたのは教育目的だったのだとしても、民間に広まる前から、普通に遊びとして使われることもあったのかどうか、ということらしい。

 最初の絵のない双六は「仏法双六」、絵がついたものを「浄土双六」とする分類もある。
普通は仏法双六の方が歴史的に古いとされているが、実は浄土双六の方が先に開発されたという説もある。
壁画を参考に作ったとするなら、その可能性は十分にあろう。

日本、朝鮮、中国の官位昇進双六

 中国には、伝統的な「陞官図しょうかんず」というゲームがある。
古い仮説としては、9世紀ぐらいに、その原型はすでに作られていたという。

 陞官図は、官吏かんり、つまりは役人の出世街道をテーマとした、やはり絵双六的なゲームである。
反時計回りにくるくるマスを回りながら、中心の上がりに進んでいくタイプが主流だったようだ。

 13世紀くらいに成立したとされる朝鮮半島の「官位昇進双六」は、その陞官図が元になっていると考えられるが、形式はやや異なり、たいてい(全部?)が、下段のマスから上段マスへと上がっていく感じらしい。
これはつまり典型的な浄土双六と同じである。

 また、かなり早い時期から「水晶宮図」なる、後の普通の風俗画(普通の暮らしとか、庶民の文化とかを表した絵画)を背景とした双六の原型も中国にあったという話もあるが、このゲームに関しては詳細がまったく明らかでない。

西洋世界の鵞鳥ゲーム

 絵双六はアジアで誕生したのであろうか。
そうだとするなら、似たような時代に西洋世界で現れた、どう考えても同じ系統としか思えない双六ゲームは、影響がそちらの方に行った結果であるかもしれない。
あるいは、単に偶然似たようなゲームが、別々の地域で生じたということなのだろうか。

 実際には西洋世界の絵双六の登場は、東方よりやや遅れての時期とされる。
あるいはその逆だという研究者も結構多い。
どちらが先にせよ、似たような時期(中世くらい)ということはほぼ間違いないようだ。

ビジュアルも大切な1要素

 開発時期はともかく、流行った時期が被ってるのはおかしいことではない。
基本的にこの絵双六系のゲームが大衆に親しまれるようになった背景には、印刷技術の発展があるとされている。

 17世紀頃は美しいカラーリングの盤も増えて、より一層このゲームは愛されるようになった。
ゲームには結構ビジュアルも大事というのは、むしろ今の人の方が 共感しやすいであろう。

テンプル騎士団の開発伝説

 (仮にそう呼ぶのだとして) 西洋の絵双六である「鵞鳥がちょうゲーム」発祥の地はイタリアとされる。
この件に関して最も人気な仮説は、トスカーナ大公であったメディチ家のフランチェスコ1世(1541~1587)が、スペイン国王フェリペ2世(1527~1598)への贈り物に起源があったとするもの。
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 ゲーム自体は、テンプル騎士団が開発したものだという説もある。
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これは案外ありそうかもしれない。
テンプル騎士団というか、十字軍は当時は最先端とされていたイスラムの様々な科学や文化をヨーロッパに持ち帰ったりしているという。
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例えばチェスはその時に持ち帰られたものだという説がある。

 そういうわけだから、イスラム世界よりもさらに東の方から、すでにもたらされていた絵双六、あるいはそれに関する知識を参考に、彼らが自分たちふうのそれを新たに作ったという流れは、そうおかしいものではなかろう。

 だが実のところ、1342年には、ブリュッセルにて、鵞鳥ゲーム禁止令が出ていたとか、そういう記録もあるようだ。
ただ、いずれにしてもこのくらいの時期なら、テンプル騎士団説はやはり全然ありうる。

王宮から市民たちへ

 鵞鳥ゲームは63マスからなる螺旋コースの絵双六である。
橋や宿屋、ランプや迷路、死者などが描かれ、さらに3、4マスずつぐらいの間隔で鵞鳥の絵が描かれている。
この鵞鳥マスに止まってしまったプレイヤーは1回休み(あるいは、そこのマスに来るまでに進んできた数さらに進む)というもの。

 それがどのような経緯でスペインの国王に渡ったのかはともかくとして、ゲームは国王から臣下の者たち。
そして市民へと流通していったのだという。

日本にはいつ伝えられたか

 日本において絵双六が普及していく際にもそうだったが、鵞鳥ゲームも民間に広まっていくその過程で、様々なテーマの風俗画が背景として採用されるようにもなっていく。

 そして、おそらく17世紀ぐらいまでには流行はヨーロッパ全土に及んでいたと考えられている。

 かなり確かなことは、開国後、明治時代くらいの頃の日本における絵双六は、かなりこの鵞鳥ゲームの影響が強いということ。
しかし明治まで待たずとも、普通にキリストの宣教師が日本にやってきて以降は、このゲームも日本に持ち込まれていただろうが、おそらくキリシタン弾圧などの影響で、ほぼ処分されてしまったとみられる。

ヘビと梯子。インドかチベットかイギリスか

 古代のゲームクリエイト大国といえばインドであろう。
現在「ヘビと梯子はしご(Snakes and Ladders)」として知られる、絵双六系統のゲームの起源も、その地だとされる。

 ヘビと梯子は、比較的小さい子供でも遊べるシンプルなゲームとして、現在もよく知られている(日本ではあまり知られていない)。
これは10×10(100)マスを使った双六なのだが、上のマスと梯子で繋がったマスに止まると、梯子を登った扱いでショートカットができる。
そして、ヘビの頭のマスに 止まってしまうと、食われた扱いになり、そのヘビのしっぽのマスまで戻らなければならないというもの。
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 ただしこのゲームの研究は(関心を持っている人が少なかったためか)あまりされてこなかったという歴史的な経緯もあり、本当にインドが発祥なのか怪しい部分もあるという。

 また、少なくとも17世紀頃にはチベットに完全なこのタイプのゲームがあったという、イギリス人の研究報告もあるらしい。
このことから、その起源がチベットだと考える者も結構いるという。

 そのイギリスも、普通はインドを植民地にした時にそれが伝わってきているとされてるが、逆に元々はイギリスのゲームだという説もあるようだ。

 それと、完全な形でのそのゲームが17世紀にあったということは、開発自体はもっと古い可能性もある。
そこで日本、中国、朝鮮の各絵双六も、その起源はチベットなのでないかという説もある。

江戸時代の絵双六は、芸術であったから広く知られるようになったか

 よく言われるが、絵双六に相当するようなゲームは世界中に存在したのに、なぜ日本のものが特に注目を集めやすいのか。
それはさながら、そこに描かれた背景としての絵画の芸術性の高さに他ならないとされる。

 他の国の絵双六の絵が、ただゲームをわかりやすくするための記号的な意味合いが強いのに比べ、日本のそれの場合はまさしく鑑賞するだけという行動にも耐えうるようなぐらい、優れた絵が使われていることも結構多かったのだ。

 これは長い鎖国という期間の間に培った日本人独特の、ゲームビジュアルに対するこだわりと言われることもある。
あるいは、もともと日本人というのはそういう気質(美しいもの好き?)なのかもしれない。
それはおそらく、コンピューターゲームの時代になっても変わらなかったから、日本人はやたらゲームに世界観を与える進化を好んだのであろう。
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 また江戸時代には、旅をテーマにしているとされる、『道中双六』というものも、かなり流行っていたようだ。
特に江戸時代の初期から中期くらいまでにかけては、あまり庶民の(特に長期の)旅行というのは歓迎されなかったようだ(けっこうそういうお触れが出されていたらしい)から、 遠くへの長旅に憧れる気持ちもあったのかもしれない。
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今、現実の世界では、わりと好きにできる我々が、空想の世界を描いたファンタジーに憧れるようなものなのであろうか。

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